<2009年9月18日>
「命の連鎖」を語る人が増えてきたようだ。
「命は、みんな繋がっているんだ!」と・・
確かに、すべての命は繋がっている。
すべての命が繋がって大自然が成立している。
だがひとつ懸念がある。
「命の連鎖」を頭で理解したとして、
「その人の心の中で、そこから何がどのように展開していくか??」ということだ。
「命は連鎖しているから・・」という認識が、
逆に「個の生涯」を軽視する風潮になりはしないか??と危惧するのだ。
「命はリレーされてるから、大丈夫、次の命になっていくんだよー!!」で済まされたら、
そんな風潮になったら困るのだ・・・・
しかし、人間は本当に「命の連鎖」を納得しているのだろうか??
もしそれが本心ならば、たとえ人間が野獣に食われても、文句は一切出ないはずだ。
人間が腹を空かせた猛獣に食われても、大騒ぎにはならないはずだ。
だが現実には、人間はすぐさま報復に向かう。
「なんてことだ!!人間が動物に食われるなんて!!許せない!!」となるのだ。
そしてその野獣を大勢の武装した人間たちが殺しに行く。
人間は、自分が他の動物を食うことは「当然の権利」としながら、
自分が食われることなど絶対に認めない。いや、考えもしない。
「自分が食われることなど絶対に認めない」のに、「命の連鎖」を平気で語るのだ。
※なにしろ、たとえば犬に咬まれれば、その犬を殺処分するのが人間社会だ。
そこに深い事情があっても、理不尽に対して防衛行為で咬んだとしても、多くは殺処分されるのだ。
「命の連鎖」の背景には、
それぞれの命たちの途轍もなく壮大なドラマが隠されている。
それぞれの命の、かけがいのない尊い生涯が隠されている。
それぞれの命の、全身全霊の苦闘が隠されている。
命の連鎖の陰に、それぞれの命の偉大なドラマがあった。
命の連鎖とは、つまりその偉大なドラマを語り継ぐことなのだ。
命の連鎖を単なる事象と考えれば、つまり何も見えずに終わるのだ・・・・
それぞれの「個」の偉大なドラマを知り、そして「命の連鎖」を考える。
そこにはそれぞれの、渾身の生涯があったのだ。
その渾身の生涯が、語り継がれていくのだ。
■南無華厳 狼山道院■
「命の連鎖」を語る人が増えてきたようだ。
「命は、みんな繋がっているんだ!」と・・
確かに、すべての命は繋がっている。
すべての命が繋がって大自然が成立している。
だがひとつ懸念がある。
「命の連鎖」を頭で理解したとして、
「その人の心の中で、そこから何がどのように展開していくか??」ということだ。
「命は連鎖しているから・・」という認識が、
逆に「個の生涯」を軽視する風潮になりはしないか??と危惧するのだ。
「命はリレーされてるから、大丈夫、次の命になっていくんだよー!!」で済まされたら、
そんな風潮になったら困るのだ・・・・
しかし、人間は本当に「命の連鎖」を納得しているのだろうか??
もしそれが本心ならば、たとえ人間が野獣に食われても、文句は一切出ないはずだ。
人間が腹を空かせた猛獣に食われても、大騒ぎにはならないはずだ。
だが現実には、人間はすぐさま報復に向かう。
「なんてことだ!!人間が動物に食われるなんて!!許せない!!」となるのだ。
そしてその野獣を大勢の武装した人間たちが殺しに行く。
人間は、自分が他の動物を食うことは「当然の権利」としながら、
自分が食われることなど絶対に認めない。いや、考えもしない。
「自分が食われることなど絶対に認めない」のに、「命の連鎖」を平気で語るのだ。
※なにしろ、たとえば犬に咬まれれば、その犬を殺処分するのが人間社会だ。
そこに深い事情があっても、理不尽に対して防衛行為で咬んだとしても、多くは殺処分されるのだ。
「命の連鎖」の背景には、
それぞれの命たちの途轍もなく壮大なドラマが隠されている。
それぞれの命の、かけがいのない尊い生涯が隠されている。
それぞれの命の、全身全霊の苦闘が隠されている。
命の連鎖の陰に、それぞれの命の偉大なドラマがあった。
命の連鎖とは、つまりその偉大なドラマを語り継ぐことなのだ。
命の連鎖を単なる事象と考えれば、つまり何も見えずに終わるのだ・・・・
それぞれの「個」の偉大なドラマを知り、そして「命の連鎖」を考える。
そこにはそれぞれの、渾身の生涯があったのだ。
その渾身の生涯が、語り継がれていくのだ。
■南無華厳 狼山道院■