<2009年9月15日>

私は皆様に、共生仏教である「華厳」を紹介してきた。

ただひたすら、平易な言葉で紹介してきた。

誰に共感を求めた訳でもない。

この人知れず伝えられてきた華厳仏教を、

せめて皆様に知って戴ければという、ただその一心で書いてきた。

だから極力、やさしい言葉で書いてきた。

できる限り分かり易いように書いてきたつもりなのだ。


ほとんどの仏教書は、文章が分かりづらい。

そして「結局、何が言いたいのか・・」も分かりづらい。

多くが、「解説の解説・・」のような内容になってしまっているのだ。

だから私は、「結局、何が・・・」を重視してダイレクトな表現を試みた。

そこに至るまでには、長い年月がかかった。

自分の中での「実感」が絶対に不可欠であり、そしてその表現の練磨も必要だったのだ。

華厳経(六十・八十・四十)の経の構成とか、歴史とか立場とか、

そのようなことはほとんど書かずにきた。

それらはこれまでに数多く書かれてきたし、あえて私が書くまでもないからだ。

私はだから、自分の実感で知り得た華厳を書いてきた・・・・


私の華厳の師は、山であり、狼であり、犬たちだった。

彼らから、途方もない無尽無量の言葉を伝えられた。

それを、拙い表現ながらも、精一杯に文章に変えてきた。

先達の華厳僧は、「華厳は、大自然の生命力そのものだ・・」と語ってくれた。

そしてその師は、「あなたは、華厳を知っている・・」と言葉を結んでくれた。

その師の言葉は、われわれ山のすべてのみんなに向けての言葉だった。


いわゆる「宗教」が、人間界の平安を願うだけのものだとすれば、

華厳は宗教ではないと言える。

その意味では、華厳は宗教の概念を超越しているのだ。

華厳は、人間のためだけにあるのではない。

大自然のすべてのみんな、大宇宙のすべてのみんなを見守っているのだ。

華厳仏教が「超難解」と言われ続けてきたのは、

その概念のスケールがあまりにもダイナミックで壮大だからだ。

つまり、実感し難い領域へ突き抜けていくからだ。

だがいよいよ、人類は華厳を知るべき時が迫ってきたと感じる。

ご利益宗教概念を超えて、真に「叡智」を求めるべき時が迫ってきたと感じる。


※華厳は、ご利益を謳わない。

ただ真相を説き、尊厳の平等性を説き、そして目指すことの重大さを説く。


※命はみんな、老いて、そして死ぬ。

アクシデントはどこにでも潜み、いつ死ぬとも限らない。

自分だけはいつまでも若くとか、自分だけは延々と長生きしたいとか、

自分だけは特別に災難から逃れたいとか、

そんな夢想に囚われて生きれば、本当の充実からどんどん遠ざかる。

厳然と「空」を受け止め、厳然と「無常」を受け止める。

勇気を振り絞って、己のすべてで受け止める。

命は、果敢に生きてこそ、本領を発揮する。


■南無華厳 狼山道院■