<2009年7月10日>
自然界の摂理は、途方も無く深遠だ。
途方も無く精緻で、途方も無く絶妙だ。
どんな頭脳を持ってしても、そこには近づけない。
近づいたと思えば、実は遠のいている。
近づいたと錯覚し、実は逆走している。
あまりに無数のファクターが、
無限に相関し、無限に連鎖する。
一瞬一瞬に相関し合い、一瞬一瞬に無限連鎖する。
一瞬後には、まったく新たな世界が登場するのだ。
一瞬一瞬に、新たな世界に変わっていくのだ。
そのたびごとに、調和が成される。
その一瞬ごとに、調和が実現されていくのだ。
あまりにも途方も無い、
あまりにも想像を超えた、
あまりにも異次元のスケールだ。
それを、人為で真似できると思っているのだろうか??
自慢の科学で真似できるとでも思っているのだろうか??
その偉大な摂理は、
いったいなんのために生まれたのか??
いったいなんのために機能しているのか??
そもそもなにが、その摂理を生み出したというのか??
いくら考えたところで、分かりはしない。
なにしろ、人智の領域を超えた世界なのだから。
だが、分かりはしなくとも、「感じる」ことはできる。
「感じる」能力は、人間にも、ある。
だが「感じる」を軽視して疎外すると、その能力はどんどん衰えていく。
つまり、どんどん鈍感になっていくのだ。
鈍感になると、あらゆる方面で支障が出てくる。
「理論」の方向性の判断に於いても、「科学」の方向性の判断に於いても、
やがて必ず支障が起こり、自らの首を絞めることとなる。
説明し難い部分に、不可思議な領域に、「ヒント」が隠されている。
そこにこそ、莫大なヒントが潜んでいるのだ。
人間の理屈で解明できる領域になど、その固定観念の範疇になど、
無限スケールの摂理を知るヒントなどありはしない・・・・
※「痛覚」という感覚がある。
動物に於いて、最も鋭敏な感覚だ。
なぜ痛覚が、最も鋭敏な感覚として与えられたのか??
身体がダメージを負ったとき、それ以上のダメージを防ぐためだ。
「今、身体が傷を負いましたよ。注意してケアしてください!!」という知らせだ。
もし痛覚がなかったら、身体はどんどん壊れていく。
どんどん壊れて、死んでいく。
つまり痛覚は、「生存」に不可欠の感覚だ。
生存を続けるために、痛覚があるのだ。
だからどんな動物にも痛覚が存在する。
足を怪我すれば、足を引きずる。足を引きずって足をかばう。
痛いのだから悲鳴もあげる。痛いのだから苦悶する。
どんな動物も、すべからく一緒だ。
「植物」は、そこを動けない。
植物は大地に生えて、一生そこを動けない。
どんなときも、身に危険が迫っても、そこを動けない。
大地に生えれば、他の生物たちに踏まれることになる。
いつも踏まれる危険性の中で生きていく。
大木は、雷に打たれる危険の中で生きていく。
だが雷鳴が轟いても、大木はそこを逃げることができない。
大木は雷に身を二つに折られても、そこに立ち続ける。
自然界の摂理が、植物に動物と同様の痛覚を与えるだろうか??
自然界が、そんな酷い摂理を機能させるだろうか??
そこを動けない運命の命たちに、ダメージを避けられない運命の命たちに、
敢えてわざわざ、動物と同様の種類の「痛覚」を与えるはずがない。
それでは痛覚を与える意味が、根本から問われてしまうことになる・・・・
もちろん、植物に、意識がある。
「命」なのだから、意識がある。
当たり前の話だ。論ずるまでもない。
ただその意識は、動物のそれとは、おもむきが異なるだろう。
命たちの意識の傾向は、種族によってかなり異なると感じるのだ。
どこがどのように異なるのか?と問われても、答えようがないが・・・・
それこそ、「感じる」しかないのだ。
己の感性の全てを動員させて、感じるのだ。
あなたも、感じるでしょう??
あなたも、感じているはずです。
あなたが動物を目の前にしたとき。
あなたが植物を目の前にしたとき。
あなたが動物を触ったとき。
あなたが植物を触ったとき。
そのときあなたの中でどんな感覚が起こりますか??
そのときあなたの心にどんな反応が生まれますか??
彼らと全霊で対峙すれば、
動物が持つ意識の種類と植物が持つ意識の種類の違いが、分かるはずです。
植物には植物の偉大な使命がある。
動物には動物の偉大な使命がある。
そして自然界の摂理は、その生態に応じて固有の感性を与えた。
植物と動物の感受性はそれぞれに独特であり、
その独特の感受性が、自然界の摂理に組み込まれている。
つまり重大なことは、その感受性を尊重し、それに配慮するということだ。
植物の感受性を知ることは、かなり難しいようだ。
だが真に動物の感受性を知ることができれば、
やがてだんだんと植物の感受性も分かってくるはずだ。
動物が恐怖に悲鳴を上げるとき、激しい痛みに苦悶するとき。
その姿を見て、あなたは何を感じますか??
あなたの心は、どんな反応を起こしますか??
その自分の心模様を、自分で見つめてみてください。
そこに重大なヒントが隠されています。
あなたの心のステージによって、
あなたにとっての動物が、変わります。
あなたにとっての植物が、変わります。
あなたにとっての自然界が、変わります。
動物と植物、それぞれ意識の傾向性は異なれど、同じ「命たち」です。
もし動物の意識と交感できたなら、やがて植物の意識とも交感できるでしょう。
もし交感できたなら、
もしかりに「命を戴く」ときにも、その「戴き方」を配慮するようになるだろう。
いや、それを考えざるならなくなる。
なぜなら命たちの想いが、己の心にダイレクトに流れ込んでくるからだ。
だからそのとき、せめてもの配慮を真剣に考えるようになるはずだ。
自然界は、配慮に満ち満ちている。
人間も少しはそれを見習うべきだろう。
人間はもはや自然界の摂理を逸脱している。
自ら進んで逸脱したのだから、そのリスクを自らで背負うしかない。
しかし人間は、すべての命たちを道連れにした。
人間のその逸脱行為は、すべての命たちの生活を脅かしている。
摂理を生んだ偉大なる何者かも、頭を抱え込んでいるに違いない・・・・
自然界の摂理の根本は、大悲で成り立っている。
大悲というのは、ちょっとやそっとの「愛」ではない。
想像を遥かに超えた途方も無いスケールの偉大な愛だ。
もしその愛を感じることができれば、すべてが変わるだろう・・・・
■南無華厳 狼山道院■
自然界の摂理は、途方も無く深遠だ。
途方も無く精緻で、途方も無く絶妙だ。
どんな頭脳を持ってしても、そこには近づけない。
近づいたと思えば、実は遠のいている。
近づいたと錯覚し、実は逆走している。
あまりに無数のファクターが、
無限に相関し、無限に連鎖する。
一瞬一瞬に相関し合い、一瞬一瞬に無限連鎖する。
一瞬後には、まったく新たな世界が登場するのだ。
一瞬一瞬に、新たな世界に変わっていくのだ。
そのたびごとに、調和が成される。
その一瞬ごとに、調和が実現されていくのだ。
あまりにも途方も無い、
あまりにも想像を超えた、
あまりにも異次元のスケールだ。
それを、人為で真似できると思っているのだろうか??
自慢の科学で真似できるとでも思っているのだろうか??
その偉大な摂理は、
いったいなんのために生まれたのか??
いったいなんのために機能しているのか??
そもそもなにが、その摂理を生み出したというのか??
いくら考えたところで、分かりはしない。
なにしろ、人智の領域を超えた世界なのだから。
だが、分かりはしなくとも、「感じる」ことはできる。
「感じる」能力は、人間にも、ある。
だが「感じる」を軽視して疎外すると、その能力はどんどん衰えていく。
つまり、どんどん鈍感になっていくのだ。
鈍感になると、あらゆる方面で支障が出てくる。
「理論」の方向性の判断に於いても、「科学」の方向性の判断に於いても、
やがて必ず支障が起こり、自らの首を絞めることとなる。
説明し難い部分に、不可思議な領域に、「ヒント」が隠されている。
そこにこそ、莫大なヒントが潜んでいるのだ。
人間の理屈で解明できる領域になど、その固定観念の範疇になど、
無限スケールの摂理を知るヒントなどありはしない・・・・
※「痛覚」という感覚がある。
動物に於いて、最も鋭敏な感覚だ。
なぜ痛覚が、最も鋭敏な感覚として与えられたのか??
身体がダメージを負ったとき、それ以上のダメージを防ぐためだ。
「今、身体が傷を負いましたよ。注意してケアしてください!!」という知らせだ。
もし痛覚がなかったら、身体はどんどん壊れていく。
どんどん壊れて、死んでいく。
つまり痛覚は、「生存」に不可欠の感覚だ。
生存を続けるために、痛覚があるのだ。
だからどんな動物にも痛覚が存在する。
足を怪我すれば、足を引きずる。足を引きずって足をかばう。
痛いのだから悲鳴もあげる。痛いのだから苦悶する。
どんな動物も、すべからく一緒だ。
「植物」は、そこを動けない。
植物は大地に生えて、一生そこを動けない。
どんなときも、身に危険が迫っても、そこを動けない。
大地に生えれば、他の生物たちに踏まれることになる。
いつも踏まれる危険性の中で生きていく。
大木は、雷に打たれる危険の中で生きていく。
だが雷鳴が轟いても、大木はそこを逃げることができない。
大木は雷に身を二つに折られても、そこに立ち続ける。
自然界の摂理が、植物に動物と同様の痛覚を与えるだろうか??
自然界が、そんな酷い摂理を機能させるだろうか??
そこを動けない運命の命たちに、ダメージを避けられない運命の命たちに、
敢えてわざわざ、動物と同様の種類の「痛覚」を与えるはずがない。
それでは痛覚を与える意味が、根本から問われてしまうことになる・・・・
もちろん、植物に、意識がある。
「命」なのだから、意識がある。
当たり前の話だ。論ずるまでもない。
ただその意識は、動物のそれとは、おもむきが異なるだろう。
命たちの意識の傾向は、種族によってかなり異なると感じるのだ。
どこがどのように異なるのか?と問われても、答えようがないが・・・・
それこそ、「感じる」しかないのだ。
己の感性の全てを動員させて、感じるのだ。
あなたも、感じるでしょう??
あなたも、感じているはずです。
あなたが動物を目の前にしたとき。
あなたが植物を目の前にしたとき。
あなたが動物を触ったとき。
あなたが植物を触ったとき。
そのときあなたの中でどんな感覚が起こりますか??
そのときあなたの心にどんな反応が生まれますか??
彼らと全霊で対峙すれば、
動物が持つ意識の種類と植物が持つ意識の種類の違いが、分かるはずです。
植物には植物の偉大な使命がある。
動物には動物の偉大な使命がある。
そして自然界の摂理は、その生態に応じて固有の感性を与えた。
植物と動物の感受性はそれぞれに独特であり、
その独特の感受性が、自然界の摂理に組み込まれている。
つまり重大なことは、その感受性を尊重し、それに配慮するということだ。
植物の感受性を知ることは、かなり難しいようだ。
だが真に動物の感受性を知ることができれば、
やがてだんだんと植物の感受性も分かってくるはずだ。
動物が恐怖に悲鳴を上げるとき、激しい痛みに苦悶するとき。
その姿を見て、あなたは何を感じますか??
あなたの心は、どんな反応を起こしますか??
その自分の心模様を、自分で見つめてみてください。
そこに重大なヒントが隠されています。
あなたの心のステージによって、
あなたにとっての動物が、変わります。
あなたにとっての植物が、変わります。
あなたにとっての自然界が、変わります。
動物と植物、それぞれ意識の傾向性は異なれど、同じ「命たち」です。
もし動物の意識と交感できたなら、やがて植物の意識とも交感できるでしょう。
もし交感できたなら、
もしかりに「命を戴く」ときにも、その「戴き方」を配慮するようになるだろう。
いや、それを考えざるならなくなる。
なぜなら命たちの想いが、己の心にダイレクトに流れ込んでくるからだ。
だからそのとき、せめてもの配慮を真剣に考えるようになるはずだ。
自然界は、配慮に満ち満ちている。
人間も少しはそれを見習うべきだろう。
人間はもはや自然界の摂理を逸脱している。
自ら進んで逸脱したのだから、そのリスクを自らで背負うしかない。
しかし人間は、すべての命たちを道連れにした。
人間のその逸脱行為は、すべての命たちの生活を脅かしている。
摂理を生んだ偉大なる何者かも、頭を抱え込んでいるに違いない・・・・
自然界の摂理の根本は、大悲で成り立っている。
大悲というのは、ちょっとやそっとの「愛」ではない。
想像を遥かに超えた途方も無いスケールの偉大な愛だ。
もしその愛を感じることができれば、すべてが変わるだろう・・・・
■南無華厳 狼山道院■