<2009年6月17日>

動物管理学という動物管理思想がある。

動物をマネジメントする学問であり、

人間社会の都合の元に動物を「管理」するという思想らしい。

管理の発想だから、「動物との対話」など求めない。

逆に、対話など邪魔になるようだ。

そういう感覚的なものは「邪道」と見なされるらしい。

この管理学は近代科学思想から派生した分野のようだが、

だから大自然や動物に対するスタンスが非常に冷徹だ。

どこまでも「学問思想」であり、そこに感覚や感性の入り込む余地などない。

たとえフィールドワークで研究しても、

ただ学問の視座で眺めれば、そこに潜む核心を見失うだろう。

だが動物管理学者は、世間では「動物の専門家」という立場を得ている。

彼らは専門家として発言し、世間はその理屈を信じる。


このブログへ攻撃に訪れる者の多くは、

この「動物管理思想」を信仰する人間たちのようだ。

彼らから見れば私は反社会的人間に映り、どうしても許せない様子だ。

なぜなら、彼らからすれば「邪道」の分野を語り続けているからだ。

彼らは頭に知識を詰め込んでいる。

だから彼らは延々と知識を披露する。

貯め込んだ知識を武器に理屈を連射する。

だが彼らは知識漬けの果てに、感覚や感性を退化させてしまったようだ。

そして「実感する心」を失ってしまったようだ。

真に動物を理解するには、「実感する心」が重大だというのに・・・・

実感する心を磨くには、思考の迷路から脱出しなければならない。

思考に囚われる自分を自覚し、深静の時を持つべきだ。

知識も重要だが、

その知識を最大限に生かすためには、実感が重大だ。

そこに実感が生まれたとき、その知識は別の姿を現わすはずだ。

■南無華厳 狼山道院■