<2009年6月2日>

「宥和・yuuwa」とは、

「主張しながらも、相手の言葉にも耳を傾ける」

「主張しながらも、相手の事情と相手の心境を鑑みる」

「主張は主張としながらも、妥協の可能性も探索する」・・・・

このように私は「宥和」を考えている。

宥和は、重大だと思う。

さまざまな思考の人がいて、さまざまな思想の人がいて、

そこで意見が異なるのは至極当然のことだ。

ただし、じっと相手の話を聞いてみて、

そこに納得の部分があれば、それを認める勇気が必要だと思う。

「その部分は分かったよ・・・そこは了解したよ・・・

君の立場も分かったよ・・・君の事情も分かったよ・・・

それを知った上で話すよ・・・君を認めた上で話すよ・・・

でも俺はこう思っている・・・・・

どうだろう、俺の言うこの部分は、君も分かってくれるかい??

この部分については、君はどのように感じてる??」


私は「動物の尊厳」を語るとき、

いつも「せめて・・・・」という言葉を使ってきた。

人間界の事情も分かるから、「せめてこれくらいは・・・・」と提言してきた。

動物の尊厳を語る人の多くも、同様に「せめて・・・」の口調で話している。

だが反発者たちの多くは、宥和の意識など持たずに攻撃一色となる。


昔昔は、人間は動物に対して「尊厳」の概念など持たなかった。

ペットに対しても、どこまでも「ペット」だった。

それがだんだんと変わってきて、ようやく尊厳意識が芽生えてきた。

尊厳意識が芽生えてきたからこそ、

飼育放棄や虐待に対して世間が疑問を持つようになった。

疑問を抱き、そして対策を考えるようになった。

動物たちからすれば、本当に有難い状況になってきた。

やっと・・・やっとそのような世間になってきたのだ。

動物たちは長い間、気の遠くなるほど長い間、待ち侘びてきたのだ。

だが、その状況を、面白くないことと見る人たちがいる。

その人たちは、動物の立場を考える行為自体が許せない様子だ。

そんなことを考えるのは「反社会的行為」だと断罪する。

その人たちは、ずっとずっと昔昔のままの人間界でありたいのだ。

「人間が一番偉いんだ・・動物のことを考えるなんてどうかしてる・・・」

だからその人たちは、最初から聞く耳など持っていない・・・・・

「過保護」を謳っている訳ではないのに、

「動物優先」を謳っている訳ではないのに、

そんなことは微塵も提唱していないのに、

それでも反発者たちは、どこまでも許さない・・・・・

実際、いくつもの動物愛護ブログが、彼らからの攻撃を受けている。


ところでこのブログも、攻撃を受け続けてきた。

だが私の場合は、少し事情が違っている。

私への攻撃者は、動物愛護サークルのようなのだ。

そのサークルは独自の主義がある様子だが、

どうも私の記事が、その主義に反するから、

「叩き潰せ!!」ということになっているらしい。

私は相手のブログを読んだが、立派な記事が書かれている。

私がどうこう言う問題ではないのでコメントなどしない。

しかし大きな疑問が湧いた。

あれだけの記事を書く人が、

なぜあのような方法で、なぜあのようなスタイルで、誹謗中傷を繰り返すのだろうか??

連綿と執拗に揚げ足取りを繰り返すスタイルを見れば、とても同一人物とは思えない。

その人の記事を見る限りでは、なぜにこの私を攻撃するのかが分からない。

最終的な目標としては共通項も多い様子なのに、

大きな意味では重なる部分も多い様子なのに、

なぜああまで私を攻撃するのか、それが分からない。

私は東京都に問う。

「動物愛護推進委員」とは、どのような立場なのかと。

あのような手段で自分の気に障る者を叩き潰そうとする人間が、

愛護推進委員としての人格を有しているのかと。

■南無華厳 狼山道院■