<2009年5月18日>
世界人口は六十数億人だという。
この二百年で6倍くらいに増えたという。
とにかく物凄い数字だ。
果たして地球は支え切れるのだろうか??
人間が「何を食うか」が、
大きく問われる時代に突入したように思う。
それを考えなければ、地球は到底持たないように感じる。
人間の殆どは肉を食うが、
六十数億の人間が肉を求めていたら、
地球の調和が成立する限界点を軽く突破してしまうだろう。
六十数億の肉食動物を抱えるキャパなど、地球には無いだろう。
それは地球が想ってもみなかった予想外の事態だろう。
この予想外の事態に、さぞかし地球もビックリしているに違いない。
肉食の歯も持たずに、肉食に適合した胃腸も持たずに、
それなのに人間がこうまで肉を好むようになるとは、
地球も「まさか・・・・」と絶句しているだろう。
肉を欲しさに、不自然極まる方法で養殖し、
その不自然極まる養殖が結局、世界の食糧不足を招いている。
その不自然極まる養殖が、劇的な環境破壊を招いている。
それが人間自身をも苦しめているという事実に、気づき始めた人も多い。
それが「同族の飢え」に結びついている事実に、気づき始めた人も多い。
世間にも少しずつデータが紹介されるようになったから、関心を抱く人も増えた。
だが、未だなお、強い拒絶反応を見せる人が圧倒的だ。
なぜなのだ???
なぜそんなに「肉」に執着しているのか・・・・
世間は「エコ!!」と叫んでいるというのに、
もはや「エコ!!」が常識的感覚になっているはずなのに、
「反エコ」の筆頭である肉食に対して何も疑問を持たない人が、未だに圧倒的だ。
人が肉を求めなければ、世界はケタ違いに豊かになるという。
「少量のトウモロコシの粉」だけで生き延びている子供たちも、
おいしいパンや果物を、お腹いっぱい食べれるようになるというのに・・・・・
あるいは、非肉食が地球温暖化を防ぐ最も有効な手段だと言われているが、
たとえそれを知ってさえ、なおも人は肉に執着するのだろうか・・・・・
そして不自然極まる養殖により、動物は極度の不幸となる。
肉が食いたい!!という「嗜好」が、動物を不幸のどん底に落としている。
そうまでして、自分の嗜好を満たしたいのか・・・・
そうまでして、嗜好を楽しみたいのか・・・・
おいしい御飯があるではないか・・・
おいしいパンがあるではないか・・・
おいしい野菜があるではないか・・・
おいしい果物があるではないか・・・
いろんないろんな食べ物があるではないか・・・
いったい、なにが不満なのだろう・・・・・
なぜわざわざ、肉を選ぶのだろう・・・・・
昔は「五穀」を絶って精進に励んだ修行僧もいたと聞くが、
ここでの話は、そのような極端な話ではない。
穀物も野菜も果実もキノコも、いっぱい食べられるのだ。
不思議だ・・・なんの不服があるというのだ・・・・・
だが、動物の解放される社会の到来は、遠い未来になるかも知れない。
今はせめて、畜産動物の境遇の改善を、願うばかりだ。
今はせめて、「動物の尊厳」に対する意識を持ってもらいたい。
その意識の有ると無いとでは、すべてに於いて、天地の開きが生ずるからだ。
その意識の元に、人間の知恵を惜しみなく投入して、
動物たちが死ぬその時まで、彼らに平安を与えてあげて欲しい。
それがせめてもの、今の願いだ。
なにしろ、命を、戴くのだ。
境遇への配慮があって、当然ではないか・・・・・
「植物にも命があるだろうが!!肉は駄目で植物は食ってもいいのか??」
非肉食の話題となると、このような反論が、必ず渦巻く。
これが反論者たちの常套句だ。
だがその人たちは、植物に対して、どのように感謝しているのだろうか??
その人たちは日々、植物に対してどのように祈っているのだろうか??
道を歩く時、草を踏まないか??
芝生に寝転がったことは無いか??
草刈の光景を見たとき、何を思う??
花屋に切花が並んでいる光景を見て、何を感じる??
部屋の観葉植物が枯れたとき、何を感じる??
その枯れた観葉植物を、どのように弔った??
畑で野菜が育っている姿を見たとき、何を感じる??
野菜を切るとき、どんな想いで切る??
野菜を食べるとき、野菜の命に対して、どのように感謝している??
植物に、命がある。 当たり前の話だ。
だが植物と動物とは、その感受性が、かなり違う。
その痛みの感覚も苦しみの感覚も、かなり異なる。
その自然界での立場と役割が異なり、感性もそれぞれに独特のものなのだ。
私は長い年月、植物の心も、知ろうと試みた。
山で、野性禅の中で、植物の声を、かすかに聴いた。
彼らは自分たちが、無数の命たちを支えていることを知っている。
そして大自然の誰もが、その事実を知っている。
誰もが、植物の恩恵を受けて生きている事実を知っている。
つまり植物たちは、己の使命の理解者たちと共に生きている。
そこには、大いなる暗黙の了解が存在している。
植物たちは、その喜びの中で生きている。
人間界に於いて植物は、真の理解者と出逢ったとき、とても喜ぶ。
そして彼らはその時、己の使命を全うしたいと願う。
だが、真の理解者に出逢えることは滅多にない。
口先だけの理解者は多いが、植物たちは鋭く見抜く。
植物たちは、哀しい想いに肩を落とす。
植物たちはその時、大きな痛みを感じる・・・・・
山で華厳の祈りを捧げるとき、
もちろん、植物たちのことも祈る。
全霊で集中して彼らのことを想うとき、物凄い疲労が生じる。
動物たちのことを想う時とは異質のエネルギーが求められる。
疲れ果てて、動くこともできなくなるような時もある。
それほどに植物の感性は、独特なのだろう・・・・
ベジタリアンを批判する人は多いが、
己の健康ばかりに気をとられる健康志向ベジタリアンは別として、
動物の尊厳に配慮してのベジタリアンならば、
きっと植物に対する感謝も本物だと思う。
きっと植物たちに対しても、深い祈りを捧げているだろう・・・・・
人が肉を求めている。
世間が肉を求めている。
「誰がどうの」という話ではない。
社会そのものが、肉を求めているのだ。
その流れの中で、甚大な理不尽が発生する。
その甚大な理不尽は、肉食が続く限り、起こり得る。
それを根本から解決するには、非肉食社会に変転するしかないだろう。
※なお、このブログを断片的に読んで曲解する人がいるようですが、
この「狼の山の魂」は、常に「全体でひとつ」になっています。
ひとつの記事だけで局限的に解釈されないことを願います。
※「データ」などを知りたい方は、
「no.219 : 参考サイト」に紹介したサイトを御覧ください。
■南無華厳 狼山道院■
世界人口は六十数億人だという。
この二百年で6倍くらいに増えたという。
とにかく物凄い数字だ。
果たして地球は支え切れるのだろうか??
人間が「何を食うか」が、
大きく問われる時代に突入したように思う。
それを考えなければ、地球は到底持たないように感じる。
人間の殆どは肉を食うが、
六十数億の人間が肉を求めていたら、
地球の調和が成立する限界点を軽く突破してしまうだろう。
六十数億の肉食動物を抱えるキャパなど、地球には無いだろう。
それは地球が想ってもみなかった予想外の事態だろう。
この予想外の事態に、さぞかし地球もビックリしているに違いない。
肉食の歯も持たずに、肉食に適合した胃腸も持たずに、
それなのに人間がこうまで肉を好むようになるとは、
地球も「まさか・・・・」と絶句しているだろう。
肉を欲しさに、不自然極まる方法で養殖し、
その不自然極まる養殖が結局、世界の食糧不足を招いている。
その不自然極まる養殖が、劇的な環境破壊を招いている。
それが人間自身をも苦しめているという事実に、気づき始めた人も多い。
それが「同族の飢え」に結びついている事実に、気づき始めた人も多い。
世間にも少しずつデータが紹介されるようになったから、関心を抱く人も増えた。
だが、未だなお、強い拒絶反応を見せる人が圧倒的だ。
なぜなのだ???
なぜそんなに「肉」に執着しているのか・・・・
世間は「エコ!!」と叫んでいるというのに、
もはや「エコ!!」が常識的感覚になっているはずなのに、
「反エコ」の筆頭である肉食に対して何も疑問を持たない人が、未だに圧倒的だ。
人が肉を求めなければ、世界はケタ違いに豊かになるという。
「少量のトウモロコシの粉」だけで生き延びている子供たちも、
おいしいパンや果物を、お腹いっぱい食べれるようになるというのに・・・・・
あるいは、非肉食が地球温暖化を防ぐ最も有効な手段だと言われているが、
たとえそれを知ってさえ、なおも人は肉に執着するのだろうか・・・・・
そして不自然極まる養殖により、動物は極度の不幸となる。
肉が食いたい!!という「嗜好」が、動物を不幸のどん底に落としている。
そうまでして、自分の嗜好を満たしたいのか・・・・
そうまでして、嗜好を楽しみたいのか・・・・
おいしい御飯があるではないか・・・
おいしいパンがあるではないか・・・
おいしい野菜があるではないか・・・
おいしい果物があるではないか・・・
いろんないろんな食べ物があるではないか・・・
いったい、なにが不満なのだろう・・・・・
なぜわざわざ、肉を選ぶのだろう・・・・・
昔は「五穀」を絶って精進に励んだ修行僧もいたと聞くが、
ここでの話は、そのような極端な話ではない。
穀物も野菜も果実もキノコも、いっぱい食べられるのだ。
不思議だ・・・なんの不服があるというのだ・・・・・
だが、動物の解放される社会の到来は、遠い未来になるかも知れない。
今はせめて、畜産動物の境遇の改善を、願うばかりだ。
今はせめて、「動物の尊厳」に対する意識を持ってもらいたい。
その意識の有ると無いとでは、すべてに於いて、天地の開きが生ずるからだ。
その意識の元に、人間の知恵を惜しみなく投入して、
動物たちが死ぬその時まで、彼らに平安を与えてあげて欲しい。
それがせめてもの、今の願いだ。
なにしろ、命を、戴くのだ。
境遇への配慮があって、当然ではないか・・・・・
「植物にも命があるだろうが!!肉は駄目で植物は食ってもいいのか??」
非肉食の話題となると、このような反論が、必ず渦巻く。
これが反論者たちの常套句だ。
だがその人たちは、植物に対して、どのように感謝しているのだろうか??
その人たちは日々、植物に対してどのように祈っているのだろうか??
道を歩く時、草を踏まないか??
芝生に寝転がったことは無いか??
草刈の光景を見たとき、何を思う??
花屋に切花が並んでいる光景を見て、何を感じる??
部屋の観葉植物が枯れたとき、何を感じる??
その枯れた観葉植物を、どのように弔った??
畑で野菜が育っている姿を見たとき、何を感じる??
野菜を切るとき、どんな想いで切る??
野菜を食べるとき、野菜の命に対して、どのように感謝している??
植物に、命がある。 当たり前の話だ。
だが植物と動物とは、その感受性が、かなり違う。
その痛みの感覚も苦しみの感覚も、かなり異なる。
その自然界での立場と役割が異なり、感性もそれぞれに独特のものなのだ。
私は長い年月、植物の心も、知ろうと試みた。
山で、野性禅の中で、植物の声を、かすかに聴いた。
彼らは自分たちが、無数の命たちを支えていることを知っている。
そして大自然の誰もが、その事実を知っている。
誰もが、植物の恩恵を受けて生きている事実を知っている。
つまり植物たちは、己の使命の理解者たちと共に生きている。
そこには、大いなる暗黙の了解が存在している。
植物たちは、その喜びの中で生きている。
人間界に於いて植物は、真の理解者と出逢ったとき、とても喜ぶ。
そして彼らはその時、己の使命を全うしたいと願う。
だが、真の理解者に出逢えることは滅多にない。
口先だけの理解者は多いが、植物たちは鋭く見抜く。
植物たちは、哀しい想いに肩を落とす。
植物たちはその時、大きな痛みを感じる・・・・・
山で華厳の祈りを捧げるとき、
もちろん、植物たちのことも祈る。
全霊で集中して彼らのことを想うとき、物凄い疲労が生じる。
動物たちのことを想う時とは異質のエネルギーが求められる。
疲れ果てて、動くこともできなくなるような時もある。
それほどに植物の感性は、独特なのだろう・・・・
ベジタリアンを批判する人は多いが、
己の健康ばかりに気をとられる健康志向ベジタリアンは別として、
動物の尊厳に配慮してのベジタリアンならば、
きっと植物に対する感謝も本物だと思う。
きっと植物たちに対しても、深い祈りを捧げているだろう・・・・・
人が肉を求めている。
世間が肉を求めている。
「誰がどうの」という話ではない。
社会そのものが、肉を求めているのだ。
その流れの中で、甚大な理不尽が発生する。
その甚大な理不尽は、肉食が続く限り、起こり得る。
それを根本から解決するには、非肉食社会に変転するしかないだろう。
※なお、このブログを断片的に読んで曲解する人がいるようですが、
この「狼の山の魂」は、常に「全体でひとつ」になっています。
ひとつの記事だけで局限的に解釈されないことを願います。
※「データ」などを知りたい方は、
「no.219 : 参考サイト」に紹介したサイトを御覧ください。
■南無華厳 狼山道院■