<2009年4月23日>
昔、動物行動学研究家と語り合ったことがある。
その人は、じっと私の話を聞いてくれた。
そしてその人は言った。
「今まで<動物の心の世界>は、動物学にとって未踏の領域でした。
なぜなら、最も難しい領域だからです。
だからみんなが目をそらし、無視することを装ってきた。
でも、もうそのスタイルでは、限界が来ています。
かと言って、その領域に入る手段など、誰も持っていないのです・・・・」
「ゾウのすすり泣くとき」という本がある。
何年か前に、一度読んだ。
そこには、上に書いたような内容のことが書かれていた。
世界ではようやく、<動物の心の世界>に着眼する研究者が出てきたようだ。
だがその領域に踏み込むことが「イバラの道」であることを、その人たちも知っている。
だから迂闊には近づけないことを、その人たちも知っている。
26年前、私は無謀にも、その道に踏み込んだ。
一銭の余裕も無い孤立無援の在野の身で、その扉を開けてしまった。
尋常なスタンスで<心の世界>を知ることなどできない。
尋常なスタイルで<心の世界>を実感することなどできない。
だから、いやおう無しに「逸脱者」の烙印を押されることとなる。
逸脱者の烙印を背負って生きるプレッシャーに、耐え続けなければならない。
私は皆様に<動物の心の世界>を知ってもらいたいと望む。
だが皆様に、前記のプレッシャーを味わうことを薦める訳にはいかない。
だから、烙印者となって道を歩むこの私の言葉を、
皆様が希少な伝言と受け止めてくだされば、望外の喜びだ。
だが私の体験、私の言葉は、
「動物のコントロール・動物の管理」に主眼を置く人間からすれば、
奇行に過ぎず、妄言に過ぎないだろう。
そればかりか、目障りな敵と映るだろう。
「制御術・管理術」に心を縛られた人間にとっては、
私の言動のすべてが憎悪の対象となるだろう。
なぜなら、彼らと私の世界が、かけ離れているからだ。
彼らにとって私の言葉は、理解の範疇を超えているからだ。
■南無華厳 狼山道院■
昔、動物行動学研究家と語り合ったことがある。
その人は、じっと私の話を聞いてくれた。
そしてその人は言った。
「今まで<動物の心の世界>は、動物学にとって未踏の領域でした。
なぜなら、最も難しい領域だからです。
だからみんなが目をそらし、無視することを装ってきた。
でも、もうそのスタイルでは、限界が来ています。
かと言って、その領域に入る手段など、誰も持っていないのです・・・・」
「ゾウのすすり泣くとき」という本がある。
何年か前に、一度読んだ。
そこには、上に書いたような内容のことが書かれていた。
世界ではようやく、<動物の心の世界>に着眼する研究者が出てきたようだ。
だがその領域に踏み込むことが「イバラの道」であることを、その人たちも知っている。
だから迂闊には近づけないことを、その人たちも知っている。
26年前、私は無謀にも、その道に踏み込んだ。
一銭の余裕も無い孤立無援の在野の身で、その扉を開けてしまった。
尋常なスタンスで<心の世界>を知ることなどできない。
尋常なスタイルで<心の世界>を実感することなどできない。
だから、いやおう無しに「逸脱者」の烙印を押されることとなる。
逸脱者の烙印を背負って生きるプレッシャーに、耐え続けなければならない。
私は皆様に<動物の心の世界>を知ってもらいたいと望む。
だが皆様に、前記のプレッシャーを味わうことを薦める訳にはいかない。
だから、烙印者となって道を歩むこの私の言葉を、
皆様が希少な伝言と受け止めてくだされば、望外の喜びだ。
だが私の体験、私の言葉は、
「動物のコントロール・動物の管理」に主眼を置く人間からすれば、
奇行に過ぎず、妄言に過ぎないだろう。
そればかりか、目障りな敵と映るだろう。
「制御術・管理術」に心を縛られた人間にとっては、
私の言動のすべてが憎悪の対象となるだろう。
なぜなら、彼らと私の世界が、かけ離れているからだ。
彼らにとって私の言葉は、理解の範疇を超えているからだ。
■南無華厳 狼山道院■