<2009年4月19日>

老後の過ごし方。

余生の過ごし方。

皆様のそれぞれが考えていることと存じます。

余生の生き方について、私見を書いてみます。

犬たちから学んだことを、書いてみます。


肉体は、必ず、老います。

しかし、その時から、精神の学びが、本格化します。

肉体の火照りの時期の修行が終りに近づき、

いよいよ、精神の学びを存分に実行すべき時が来ます。

肉体が鎮まり、本物の集中力で、学べるのです。

その境遇は人それぞれですが、

誰しもがその時間を潤沢に持てるとは限りませんが、

せめて、その意識だけでも持つことが肝心と思います。

その意識を持つと持たないとでは、大きな違いが生じます。


老いてからこそ、学びです。

「余生を楽しむ」という言葉が氾濫していますが、

「安楽な余生」という世間の概念に惑わされている人が多いように思います。

老いてからこそ、精神の学びの旅が始まります。

壮大な旅です。

新たな人生の幕開けです。

いよいよ、今生のハイライトが始まるのです。


「老人」には勤めがあります。

若輩者たち壮年者たちの精神的指導です。

重大な使命です。

後輩者たちには真似のできない、老人ならではの教導です。

しかし残念なことに、世間は老人をそのような対象とは見ていません。

なぜ、そのような風潮となってしまったのだろう・・・・・


字が読めなくても、

これまで勉強の習慣など無かった人でも、

誰でもが、学べます。

本当はそんな時こそ、たとえば「寺」が、その学びの場になるべきです。

字が読めなくても、話を聴けばいい。

字が読めなくても、字を眺めていればいい。

そのうちだんだんと、読めるようになってきます。

きっと必ず、分かるようになってきます。

※檀家の少ない寺などは、きっと大変な台所事情でしょう。

世間は「説法」などに対価を払う意識など持たないのです。

たとえば学校の先生には報酬が支払われますが、

世間はそれを当然のことと認めていますが、

精神的教導者に対しては、とことん「無報酬」を求めます。

説法者がいくら清貧を通すといっても、無報酬では運営が成り立ちません。

大昔は、だから「布施」が世間の理解の元にあったのです。

しかし今は、説法を求める人など限られているし、

あるいは本気で説法を使命としている説法者が少ないといえます。

「本気の寺」であっても運営が成り立たないし、

あるいは誰も本気の寺など求めていないということでしょう。

今の世間では、もし誰かが「布施」すれば、

「あんた、騙されてんじゃないの?? もったいない!!!」となります・・・・・

元はといえば、多くの宗教団体が豪華な建物で身を飾って威厳を誇示し、

元はといえば、説法者がその使命を忘れて権威に溺れてきたからか・・・・・

だから世間は「説法」を信用しなくなってしまったのか・・・・・


獄中で「学ぶ」人も多いです。

獄中で学んで人生を変えた人も多いです。

それまでろくに本も読まなかった人が、

本と出会い、猛烈な独学を始めることも多いです。

その限られた空間を、無限の空間に変えるのです。

獄中を思えば、娑婆は遥かに自由に学べます。

本屋があります。図書館があります。インターネットもあります。

思い立てば、いつでも学べるのです。

誰かと一緒に・・・などと考えては学べません。

勇気を持って、一人で学ぶのです。

世間で喧伝される「安楽な余生」の幻想が見えてきます。


犬たちの老後は、荘厳です。

彼らは、自分の力が失われたことを知っています。

しかし彼らは、最期の時まで、命の使命に生きています。

その瞬間まで、精神の旅を貫き通します。

群れの後輩たちは、年老いた彼の姿を、じっと見ています。

彼の老衰の身体の深奥に息づくスピリットを見ています。

彼の精神の真髄に、学んでいるのです。

■南無華厳 狼山道院■