<2009年4月10日>

「水は方円の器に従う」という禅の言葉がある。

たとえそれが四角い器でも、丸い器でも、

水は最大限に己を一杯にして器を満たす。

「その環境の中で、その境遇の中で、全身全霊で生きる」

「己の可能性の最大限で今を生きる」

・・・このような意味だろう。

短い言葉だが、至難の生き方だ。

だが、それを目指すと目指さないとでは、すべてが変わってくる。

目指せば近づくが、目指さなければ、永遠に辿り着けない。

その差は大きいというよりも、決定的だ。

仏教はつまり、「目指す!」ことの重大さを、それを訴えているのだ。

「目指す!」と、その人の底力が湧き上がってくる。

自分でも知らない未知の力が湧き起こる。

その人の本当の可能性が現れてくる。

「禅」のハイライトは、つまり己の可能性へのチャレンジだ。

その先に、真の「個性」が開花する。

ただし、身勝手な自我のままでは、真の個性は開花しない。

だからこそ、「空・kuu」が説かれる。

「空」の偉大な調和を実感するために、さまざまな修行が説かれる・・・・・

だが人は世間に住む。

日常生活の中で「目指し続ける」ことは、本当に至難だ。

矛盾と理不尽に満ちた世間生活の中で「目指す」ことは、実に苦しい。

だがだからこそ、これが最大の修行となる。

目指すこと自体が「道」となり、

目指している限り、一歩一歩と真の己に近づく。

だが、その途中で、今生の運命が尽きることもあるだろう。

だが、そんなことは、ものともしない。

それを怖れていたら、力が萎縮する。

本来の力が隠れてしまう。

だからいつも、勇気を振り絞って生きたい。

己が己であるために。


私はいつも、「遺書」のつもりで記事を書いている。

運命は次々と変転するから、

明日がまた来るとは限らないから、

今日書けることは今日書く。

動物界からの伝言は、野性界からの伝言は、まだまだ語り尽くせないが、

せめて一言でも多く、世の中に発信する。

彼らが、己の命のすべてで私に伝えてくれた伝言を、語らずにはいられない。

言葉に現すことの困難な伝言だが、なんとしてでも世に伝えたい。

・・・ただ、その一念だ。

我が家族たち。我が子である犬たち。

彼らは毎日を、野性禅で生きている。

私が足元にも及ばない、禅の境地に立っている。

彼らは、私の真意を知っている。

彼らは、いつも私の真意を見守ってくれている。

彼らを裏切らないためにも、「今日が最期」という想いで記事を書く。

■南無華厳 狼山道院■