<2009年3月24日>

「動物の尊厳」を語れば、否定意見の集中砲火を浴びる。

異種族の尊厳を訴えれば、未だ偏見の目で見られる。

これでは、100年200年前と変わらない。

「動物機械論」の時代と、さして変わらない。

自然や動物を「物」と見た時代と変わらない。

あの時代が、一気に自然破壊を進めたというのに、

人々の意識は、未だにあの時代と同様だ・・・・


否定派は、動物に尊厳を認めることが許せないらしい。

だから最初から、聞く耳など持ってはいない。

「宥和」の意思など持ってはいないのだ。

彼らの目的は、「攻撃して叩き潰す!!」ことなのだ。

その意味では、彼らにとって「ネット」はまさに好都合だ。

なにしろ、姿も見せずに「匿名」で攻撃できるからだ。

自分は無傷のままで攻撃を続けられるからだ。

そもそも、文章だけの遣り取りで、本物の対話など不可能だ。

考えれば分かることだ。

現実社会に於いて、重大な要件の時、大抵の場合は逢って会話する。

ビジネスの場合も、政治の場合も、義理の場合も、殆どが逢って交感する。

そこでは微妙なニュアンスを実感できるからだ。

文章や言葉では表現し切れない意思や気配を感知できるからだ。

言葉の背後に隠された本心を感じ取れるからだ。

そんなことは、誰だって知っているはずだ。

だからネット文章だけの喧論の無意味さを、誰だって知っているはずだ。

だが否定派は、文章喧論に引っ張り込もうとする。

それでいながら、平然と現実社会にリークする。

自分は隠れて相手だけを現実社会に放り込む。

世間は、普段は国家権力に対して批判的でも、

自分の都合次第で法権力を利用するのだ。

人界の法律を盾に取る人の何と多いことか・・・・


たとえば、動物の殺処分問題がある。

だが、議論など最初から成立などしない・・・・

「収容」に限界があるから、殺処分もやむを得ないとするなら、

それならば飼育放棄する飼主を減らさなければならない。

飼育放棄を減らすには、人々の意識を変えなければならない。

世間の動物に対する認識を変革しなければならないのだ。

そのために「動物の尊厳」を訴えても、結局世間はそれも認めない。

つまり、未だ世間の本音は、「動物に尊厳????」なのである。

「なにそれ???」なのである・・・・


世間は「感謝!!」と口にする。

「命に感謝!!」と美言を口にする。

だが、感謝!!と言うならば、動物たちの実情を知る努力をすべきだと思う。

だが、その意識は見えてこない・・・・

それが今の世間の現実だ・・・・

※たとえば産業動物にとって、その輸送が「苦しみの旅」であることに人は気づかない。


なぜ私が「動物の尊厳」を語るかといえば、

たとえ相手が異種族であったとしても、

命を苦しめることが、自分の魂を傷つけることに直結しているからだ。

その人は自ら、己の魂を傷つけているのだ。

それは悲しいことだ。

だからそれを防がなくてはならない。

そのような行為を生まない世の中にするしかないのだ。

だが今は、世間自体が、世間の総意が、

動物の境遇を無視したシステムを造り上げている。

誰がどうだ、という問題ではない。

世間の人々の総意が、冷徹な動物利用を求めているのだ。

つまり、人々は皆、自分で己の魂を傷つけている・・・・・

それは悲しいことだ。

だから私は「動物の尊厳」を語る。

人も動物も、それぞれに尊い魂を持っている。

それぞれに、かけがえのない、唯一無二の個性を持っている。

魂は、命を苦しめることを、望んではいない。

誰の魂も、本当は「尊厳の平等」を知っている・・・・・

■南無華厳 狼山道院■