<2009年3月24日>
「生存」と「生きる!!」は、一緒だろうか??
世の中の人は、「生存」を絶対視するように思える。
「生存こそが正義」のような風潮があるように思える。
だが、それぞれの、「生きる!!」がある。
そのそれぞれの「生きる!!」は、他者には分からない。
そこによほどの「心の対話」が無ければ分からない。
この世には、「生」でもなく「死」でもない、「極限境」がある。
生と死の境界線上を漂っている状態だ。
「生!!」でもなく「死!!」でもないその状態の実情は、他者には分からない。
そこには、その者にしか分からない、計り知れない苦しみが存在する。
だから、気安く「頑張って!!」などとは言えるはずが無い。
あるいは、「生き地獄」がある。
死よりも辛い、「この世の地獄」だ。
その想像を絶する苦しみは、誰にも分からない。
いかなる人間にも耐えられない、言語を絶した苦しみなのだ。
もはや、死こそが唯一の慈悲となる・・・・
( 他者の心に越境して他者の痛みを感知できる人は、この意味が分かるだろう・・・ )
あるいは、執拗な延命治療による、天寿を越えた「超寿」がある。
その者の本当の本心はどうであろうか・・・・
執拗に「この世界」に引っ張り続けることが、果たして救いになっているのだろうか??
「もう、往かせてください・・・・」
「もうそろそろ、静かになりたいのです・・・・」
「もう、この世を去る時が来ているのです・・・・」
「もう、お迎えが来ているのです・・・・・・」
・・・・そんな声が聴こえる・・・・
「この世界」こそが唯一絶対であるという認識だから、
「この世界での生存」だけが命の証であるという認識だから、
だからこうまで執拗に、無理やりに引っ張り続けるのだろう・・・・
たとえば、犬たちは、己の「寿命」を知っている。
「生!!」を知っている。「死!!」を知っている。
彼らは、全存在を賭けて生と対峙し、全存在を賭けて死と対峙する。
彼らは、生の意義と死の意義を知っている・・・・・
そこに真の対話があれば、その者の本心が分かる。
その者にとっての「生!!」が、分かる・・・・・
■南無華厳 狼山道院■
「生存」と「生きる!!」は、一緒だろうか??
世の中の人は、「生存」を絶対視するように思える。
「生存こそが正義」のような風潮があるように思える。
だが、それぞれの、「生きる!!」がある。
そのそれぞれの「生きる!!」は、他者には分からない。
そこによほどの「心の対話」が無ければ分からない。
この世には、「生」でもなく「死」でもない、「極限境」がある。
生と死の境界線上を漂っている状態だ。
「生!!」でもなく「死!!」でもないその状態の実情は、他者には分からない。
そこには、その者にしか分からない、計り知れない苦しみが存在する。
だから、気安く「頑張って!!」などとは言えるはずが無い。
あるいは、「生き地獄」がある。
死よりも辛い、「この世の地獄」だ。
その想像を絶する苦しみは、誰にも分からない。
いかなる人間にも耐えられない、言語を絶した苦しみなのだ。
もはや、死こそが唯一の慈悲となる・・・・
( 他者の心に越境して他者の痛みを感知できる人は、この意味が分かるだろう・・・ )
あるいは、執拗な延命治療による、天寿を越えた「超寿」がある。
その者の本当の本心はどうであろうか・・・・
執拗に「この世界」に引っ張り続けることが、果たして救いになっているのだろうか??
「もう、往かせてください・・・・」
「もうそろそろ、静かになりたいのです・・・・」
「もう、この世を去る時が来ているのです・・・・」
「もう、お迎えが来ているのです・・・・・・」
・・・・そんな声が聴こえる・・・・
「この世界」こそが唯一絶対であるという認識だから、
「この世界での生存」だけが命の証であるという認識だから、
だからこうまで執拗に、無理やりに引っ張り続けるのだろう・・・・
たとえば、犬たちは、己の「寿命」を知っている。
「生!!」を知っている。「死!!」を知っている。
彼らは、全存在を賭けて生と対峙し、全存在を賭けて死と対峙する。
彼らは、生の意義と死の意義を知っている・・・・・
そこに真の対話があれば、その者の本心が分かる。
その者にとっての「生!!」が、分かる・・・・・
■南無華厳 狼山道院■