<2008年7月8日>

人間は、権利ばかりを主張しがちだ。

そのような傾向性を強く持っている。

確かに、人間界では搾取が激しいから、

確かに、人間界では横暴が激しいから、

確かに、人間界では支配が激しいから、

だから権利を主張しなければ生き抜けないとも言える。

権利のために闘わなければ生き抜けないとも言える。

人間界で生きる上での、哀しい現実だ。


人間は「譲る」という概念が稀薄だから、

人間は「程度」の微妙なサジ加減が不得手だから、

人間は「ほどほど」を見極める能力が不足しているから、

だから必ず争いになって延々と続く。

つまり、人間は欲が深い。

つまり、人間は加減を知らない。

権力を握った者が権力をエスカレートさせる。

権力の奪還を成し遂げた者が、新たに権力をエスカレートさせる。

譲歩とか・・程度とか・・「協調に於ける微妙な按配」ができないのだ。

それは人間の傾向性だと感じる・・・・


だが、そのような意識では大自然の実像を知ることはできない。

何故なら大自然の本質が、人間界と掛け離れているからだ。

大自然は絶妙な按配の世界だ。

絶妙の配慮、絶妙の間合い、絶妙の譲歩、絶妙の加減・・・神秘の絶妙だ!!

そして何よりも人間界と異なる特徴は、「献身世界」であることだ。

大自然が献身世界であることを、未だに人間は知らない。

大自然に棲む命たちは、その献身の摂理の中で生きている。

大自然に棲む命たちは、誰もがその摂理を知っている。

大自然は弱肉強食世界ではない。

そこは、究極の献身世界なのだ!!

無論、献身の強要など微塵も無い。

当然だ。強要される「献身」などあり得ないのだ。

そこにある献身とは、命の奥底から湧きあがる使命感から生まれるのだ。


人間は大自然から、何も学ぼうとしない。

それどころか、「本能の世界!!」と愚弄する。

<そもそも、この「本能」の解釈が間違っているのだが・・・>

大自然が途轍もない世界だと知った時、人間界は変わるはずだ。

その献身調和世界を知った時、その実践者である野性たちの凄さを知った時、

人間界は衝撃を受けるだろう・・・そして根本的な何かが変化するだろう・・・・

この偉大な調和が、平穏に見える調和が、

命たちの凄まじい献身によって成り立ってきたことを知れば・・・・


野生界は過酷だ。

常に生死が隣り合わせだ。

生涯の半分は空腹の状態だ。

人間界で言うところのリラックスの時間など皆無だ。

だが、誰ひとりとして、不満など漏らさない。

誰を妬みもせず、誰を憎みもせず、権利の主張など振りかざさない。

一言の愚痴さえ漏らさずに、ただ己と対峙する。

己と対峙し、使命と対峙し、生と対峙し、死と対峙する。

献身のために・・・偉大な調和のために・・・偉大な愛のために・・・

美化しているのではない。

これが野生界の実像だ。これが野生界の実相だ。


何故、野生界が存在するのか??

何故、大自然が存在するのか??

大自然の存在の意義は何なのか??

野性たちの存在の意義は何なのか??

私は、感じる。

偉大な次元の偉大な何かが、究極を顕現した。

調和に於ける献身の姿を、ひとつの世界に顕現した。

見方によっては、過酷極まりない。

見方によっては、弱肉強食世界だ。

だがその実相は、究極の献身・究極の愛の世界だ。

人間は、そこから学ばなくてはならない。

この地球上に、途轍もない学びの世界が顕現されているのだ。

人間は、無限に学べる機会を与えられているのだ。

それなのに人間は、その偉大な世界を見下してきた。

そしてあろうことか、延々と破壊した・・・・


大宇宙には、無数の次元世界が展開されている。

さまざまな次元の世界が、さまざまな表現で、さまざまに展開されている。

無限の次元が、無限に展開されているのだ。

地球世界は、その中の、ほんの一場面だ。

地球世界は、大宇宙からすれば「極微」の世界なのだ。

だが、その極微世界にも、無限の真理が隠されている。

大宇宙を貫く真理と全く同質の真理が隠されている。

「 極 大 極 微・・極 微 極 大 」・・・・

極微に極大が宿り、極大に極微が映る。

極微と極大が重なり、極微と極大が一体となる。

大自然に、大宇宙の真理が隠されている。

その真理のハイライトは、「献身」だ。

「個性」は、自我の範囲で生きる時には、本領を発揮しない。

「個性」は、利己主義の範疇では、真髄が現われないのだ。

真の個性は、我を忘れて調和に献身する時に、真骨頂を発揮するのだ。

それを顕現しているのが大自然だ・・・・

野生界の実践者たちは、いつも光り輝いている・・・・

大自然の調和を支える命たちは、いつも光り輝いている・・・・


人間は差別が好きだ。

人間特有の本能とも感じる。

人間は、例えば無名の草花を「雑草」と呼んで嫌う。

意味無く嫌い、そして排他し抹殺する。

普段「植物にも命がある!!」と語る人の中にも、

意外にも雑草を嫌い、入念に草刈する人が多いようだ。

雑草を嫌い、虫を嫌い、意味無く駆除する人の何と多いことか・・・・

だが大自然に雑草など存在しない。

全ての草花が超一等のブランドだ。

全ての存在が偉大な献身者だ・・・・

それに気付かないのは、人間が差別を好んでいる証拠だ。

人間は人間を差別し、異種生命を差別する。

その意識の根本は、全く同根だ。

だが殆どの人は、そこに気付いていない・・・・


人々が口々に「エコ!!」と叫ぶ。

だがその反面、人間至上主義を脱却できずにいる。

どうしても、意識の転換ができない様子だ。

だから言ってることが支離滅裂で矛盾しているようだ。

だが矛盾していても、そんなことは気にしていないようだ。

人々にとって重大なのは、やはり何をさておき「人間世界」なのだろう。

快適な人間世界を維持するために、いくらでも理屈を編み出すのだろう。

だがその意識のままだと、これまでと全く変わらない。

だが意識の変革には、莫大なエネルギーが必要となる・・・・


野生界では、誰もがいずれ食われる。

猛獣であろうとも、最後には食われて献身する。

全てのみんなが、暗黙の了解の中を生きる。

だが人間は、それを拒絶する。

人間は、食われることを絶対に拒否する。

さんざん動物を食って来ながら、自分が食われることが許せないのだ。

或いは、もし動物に食われれば復讐に燃え上がる。

こんな身勝手で特殊思考の生き物は人間だけだ・・・・


私のブログ記事は、積み重ねた実体験と、野性禅の中での感応体験だ。

だから書物からの引用は全く無い。全てが己の実感解釈だ。

そしてその実感は、「華厳」に記された宇宙観と符合する。

華厳には、見事に宇宙の深奥が表現されているが、実感して初めて理解できた。

大宇宙は、「絶対平等の尊厳」を基軸に展開している。

そして大自然にも、その真理が貫かれている。

尊厳に満ちたそれぞれの魂が、学びの旅を突き進む。

虫たちの学び・・鳥たちの学び・・動物たちの学び・・・

学びに優劣など無い。いかなる学びも尊い。

野生界の命たちの渾身の学びの姿を見て、感動せずにはいられない。

彼らの、全身全霊の姿に学ぶ・・・・・

**** WOLFTEMPLE ****