
世界は殺しに溢れている。
毎日毎日、動物たちが殺される。
いろんな殺し方が存在する。
速やかに死ねない場合もある。
安らかに死ねない場合もある。
時には延々と叩かれて、全身の骨を折られて死ぬ場合もある。
生きたまま、意識のある中で、全身の皮を剥ぎ取られる場合もある。
その場合には命たちが、どれほど地獄の苦痛を味わおうと、お構い無しで執行される。
いや、その前に、とことん恐怖と絶望を味わう。
いや、その前に、拷問環境での残酷飼育を味わう。
それなのに世間は、
「殺す・殺さない」「食う・食わない」・・この論点だけで議論を沸かす。
「殺す・殺さない」だけの問題ではないだろう・・・・
「食う・食わない」だけの問題ではないだろう・・・・
まさか、「動物は痛みや苦しみや恐怖や絶望を感じない」とでも思っているのか??
或いは、「動物の感情なんかどうだっていいだろう!!」というスタンスなのか??
例えば巷で「殺処分」問題が議論される時、
例えば巷で「鯨食・犬食」問題が議論される時、
肯定派は「動物の苦痛」に対しては殆ど関心を持たない。
「殺処分も、やむおえない」 「食うことも、やむおえない」・・・
これが彼らの口癖だが、「やむおえない・・・」と言う割には、
動物たちの凄惨な死に対する哀悼の意は、彼らから殆ど感じられない。
「やむおえない・・・」と言うからには、相当な葛藤があるだろうし、
その言葉が本心ならば、心の中で哀悼の祈りを捧げるだろう。普通は・・・
だが肯定派の間では、
恐怖に怯える動物の心境を、
絶望の中で呆然と佇む動物の心境を、
地獄の痛みに悲鳴をあげる動物の心境を、
限界を超えた苦しみに呻く動物の心境を、
それら一切を無視した視座で意見が交わされている。
「せめて手段を選ぼう!!」という意見は存在するのだろうか??
だが、未だかつて「殺しの手段」について真剣に論議された場面を見たことが無い。
或いは、世間は「感謝して食べよう!!」と謳うが、
この日本で、心の中で感謝の祈りを捧げているような風情を見たことが無い。
その言葉は単なるポーズなのだろうか???
もし本当に「感謝」があるのなら、
例えば異常に肥育される「霜降り牛」を何故求めるのか??
何故そこで過剰な嗜好が入り込むのか??
「命を感謝して戴きます!!」と言いながら、なんで贅沢を求めるのか??
或いは食用の犬は、栄養価が高まるという妄信から、徹底的に拷問されるという。
単に「殺し」が目的ではないのだ。とことん苦しめた果てに殺すのだ。
だが「動物の苦痛の事実」を知ったところで、肯定派は顔色ひとつ変えないだろう・・・・
「それがどうした???」で済まされるだろう・・・・
もし平気じゃなければ、とっくの昔に「殺しの手段」を議論していたはずだ。
そして今も議論が続いているはずだ。だが、そんな場面を見たことがない。
つまり彼ら肯定派は、まるで平気ということだ・・・・
かりにも、命を戴くのだ。
何よりも尊い命を戴くのだ。
せめて、せめて苦痛無き殺し方を考えて欲しい。
せめて、せめて恐怖無き殺し方にして欲しい。
せめて、せめて殺す場所までの運搬手段を改革して欲しい。
せめて、せめて殺す日までは、安息の飼育環境を与えて欲しい。
尊い命を戴くのだから、せめてこの程度の配慮は当然のはずだ。
それなのに、これまでは余りにも無視されてきたのだ・・・・
肯定派は、否定派の意見を「感情論!!!」と断罪する。
だが肯定派は、あまりに「無感情論」を振りかざす。
なんでこんなに極端なのか??
なんでこんなに極論なのか??
せめて、殺しの手段を考えてみても良さそうだが・・・
これほど人間が科学を自慢しているのだから・・・
これほど人間がテクノロジーを自慢しているのだから・・・
これほど人間が知力と文明を自慢しているのだから・・・
その自慢の力を、せめて、「尊厳死」に生かすべきだと思うのだが・・・
せめて、尊厳死へと改革してもらいたいのだ・・・
しかしどうやら、人間にはその発想は無いようだ。
何故発想しないかと言えば、関心が無いからだ。
殺される動物の恐怖や苦しみなど、未だに眼中に無いのだ。
人間は、指一本ケガしただけで病院に駆け込む。
痛み止めを飲む・・・麻酔をかける・・・
自分たちのことになれば大騒ぎするくせに、
異種の命に対しては、とことん冷酷になれるのだ・・・・
仏教には「不殺生戒」という戒律がある。
これは、ただ「殺すな!!」という意味ではない。
「殺すな!!」と同時に、「苦しめるな!!」という意味だ。
相手が異種の命であろうとも、理不尽に苦しめるなど、絶対に許されない。
現代の僧侶の多くは、単に「戒律」としか捉えていないようだが、
戒律以前に、仏道の第一義であることは明白だ。
これほど重大事なのに、僧侶は「動物の殺し方」に対して無関心の様子だ。
「感謝して食べる・・」と口では言うが、本心で感謝しているなら、
家畜の飼育環境や輸送環境や殺され方に無関心でいられるはずが無い・・・・
我われの棲む森から降ると、牧場が点在する。
敷地は広大に在るのに、牛たちは狭い牛舎に閉じ込められている場合が殆どだ。
敷地はあるのだから、もっと放牧の時間を与えてもいいと思うのだが。
乳牛の牧場も肉牛の牧場もある。
たまに肉牛のささやかな放牧風景を見かけることもある。
そこを通る時には、辛い。
心の中で祈りを捧げる。
子牛もいる。母牛もいる。
車を止めて、彼らの元に歩む。
母牛は、必ず子牛を護る態勢に入る。
子牛は母牛の陰に隠れて様子を窺う。
子牛が無邪気に出ようとすると、母牛が制する。
母牛の、子を想う気持ちが、痛いほど伝わる。
子牛の、母を想う気持ちが、痛いほど伝わる。
私は柵の際に座る。そのまま何もしないでじっと座る。
やがて母子牛は安心し、私の元に寄って来る。
子牛が遊びだす。無邪気におどけて遊びだす。
子牛の遊ぶ姿は、例えば、子犬と全く変わらない。
本当に子犬と変わらない。天真爛漫そのものだ。
だが世界では、その純真の子牛が「家畜工場」という地獄に引きずり込まれる。
姿勢を変えることさえ許されないほどの極限状態で飼育される「家畜工場」が存在するのだ。
この現代で、共生が叫ばれる現代で、そのような魔界が実在するのだ。
生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで、彼らは一瞬の安息さえも許されない・・・・
牛たちは、みな、やさしい。
みな、穏やかに佇んでいる。
だがその牛も、トラックに積まれて運ばれる日には大声で泣くという。
五年前の深夜、既にトラックに積まれた牛が、泣いていた。
闇を渡ってくる悲痛な泣き声が、胸を貫いた。
中原中也の「赤い道」が想い出された。
その詩は、死地に向かう牛の詩だ。
これからその牛は、その赤い道を旅するのだ。死出の旅だ・・・・
私はその日から、非肉食者になった。
※2010年5月26日に改訂。
表現が「誤解」を生じる場合もあり得るので、改訂を決意した。
この記事は「世界」を視座にしたものだったが、
国内と混同される表現もあったので、その点を深く反省する。
己の文章の稚拙を反省し、読者の誤解を招いたことを深く反省する。
しかし「家畜尊厳」に対しての考察は、今後も不断に続けるものである。
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