<2008年6月28日>

「共生」という言葉が現代の合言葉になっている。

だが、一体誰のための共生観だろうか??

共生を語る一方で、人間至上主義が顔を出す。

一体どちらが「本心」なのか??

自分に都合のいい部分だけを肯定し、

都合の悪い部分には否定論を編み出す。

躍起になって理屈を編み出す。

「だって人間が大事でしょ!!快適な生活が大事でしょ!!」・・・・

結局のところ、これが本音のようだ・・・・・

だが、それを共生心とは呼ばない。

共生心なくして共生を謳うのは矛盾している。

だが世間は、矛盾していても気にならないようだ。


この人間社会で動物と暮らすことも、本当は「共生」のはずだ。

だが、その意識は未だに希薄だ。

未だに「ペット感覚」が社会通念となっている。

ペット感覚ならば虐待・飼育放棄も当然起こる。

最初から、火を見るよりも明らかだ。

だが、その感覚に疑問を持つ人は未だに少ない。

その感覚に疑問を持つ人が少ないうちは、虐待・放棄問題も解決しないだろう。

もし伴侶動物との「共生」を実践するなら、

動物との対峙の姿勢を、根本から考え直さねばならない。

「姿勢・心構え」を改めなければ、共生など不可能だ。

それができないのなら、動物は飼うべきではない。

動物たちが不幸になるだけだ。

現実に、この世は不幸な動物に満ちている。

現実に、保健所はいつも殺処分を待つ動物で満杯だ。


共生を論じる時、

「考えることのできるのは人間だけだから、人間が地球を救っていかなければならない・・」

という勘違い発言が多い。

その発想の時点で既に共生観を誤っている。

どちらかと言うと知識の豊富な人に多いようだ。学者タイプの人に多いようだ。

学術家は、どうしても動物たちの内面が分からないらしい。

どうしても動物たちの精神世界を、大自然の精神世界を受け入れられないらしい。

どうしても「人間の思考」を至高のものとして自負してしまうらしい。

その人間至上主義意識を外さない限り、真の共生観など生まれないのに・・・・・

大自然の調和は、

そこに棲む全ての命たちの渾身の献身によって成されてきたというのに・・・・・


多くの人が「肉」を食う。

家畜の過酷な生涯を知っているのだろうか??

彼らの恐怖と悲しみと苦しみを知っているのだろうか??

「だって、家畜でしょ!!食べられるために生まれたんでしょ!!」・・・

「食べたいから食べる!!人間には食べる権利がある!!動物の苦痛なんか関係ない!!」・・・

一方では共生を叫び、一方では「グルメ」に目の色を変えて飽食する。

人間が本来の「非肉食生活」を送るだけで、世界は劇的に変わるという。

いかなる「エコ活動」よりも、顕著な効果を発揮するという。

自然は護られ、世界中の国が豊かになるという。

飢える人がいなくなるという。人類を飢餓から救うという。

こんなに凄い効果を持つと知ってさえ、人間は肉食を止める気配が無い・・・・・

こんなに簡単で、こんなに凄い「エコ活動」は無い。

数ある食物の中で、ただ肉を食わないだけの話なのだ。

無理難題を吹っかけている訳ではないのだ。

それなのに、この話になると猛烈な反発心を燃やす人が多い。

よほど肉が好きなのだろう。まるで麻薬のように魅力を感じているのだろう。

或いは、「肉を食う権利」を絶対に譲りたくはないのだろう・・・・・

私は非肉食者だが、無類の健康体だ。

52歳の今でも体力はあるし、頑丈そのものだ。

零下20度の寒気の中で重労働する生活を続けても平気だった。

「メタボリック症候群」など、私には無縁だ。 肥満とも無縁だ。

「肉を食わなければ力が出ない」など、迷信であり妄信だ。

逆に、人間本来の力が湧いてくる。 本来の健康体になれる。


共生観は、迂闊には語れない。

共生の意義は果てしなく奥深い。

理屈やデータだけで語ることなどできない。

真の共生観に達するには、「異種の命との対話」が必要になる。

**** WOLFTEMPLE ****