<2008年6月13日>
犬の飼主は、状況判断力が必要だ。
さまざまな場面で、それが必要だ。
把握して、判断して、対処する。
もちろん家でも必要だが、一歩外に出れば、さらにそれが不可欠となる。
それを怠ると、結局は愛犬が苦労を背負うことになる。
それを胆に銘じるべきだ。
書庫の「ドッグラン」等にも書いたが、
本当は飼主が呑気に構えていられる時間など無い。
「静」の状態の中でも、飼主のセンサーは鋭く稼動しているべきだ。
「犬」という動物の本能・習性を知れば、飼主の心構えの重大さが分かるはずだ。
「本能・習性・個性」を常に鑑み、そして次の場面を想定していく。
一刻一刻次々と、予測していく。
予測し、事前に対処し、アクシデントを回避していく。
緊張するという意味ではない。
過度に緊張すれば適確な判断ができなくなるし、犬に緊張感を伝播することになる。
緊張せずに感覚を研ぎ澄ます・・・・毎日意識して練習していけば可能になる。
本当はこの「把握・予測・対処」は当たり前の責務なのだが、意外に呑気な人が多い。
慢心か無知か無関心か???
「神経質」も困ったものだが、「呑気」もまた困ったものだ。
結局は犬が危険に晒されることになるのだ。
日本人は犬との付き合い方で、極端に偏向する場合が多い。
「ペット雑誌」や「テレビ番組」にも罪がある。
それらのメディアは適確な情報を発信せずに「話題性」だけを追いかけた。
そして多数の飼主・飼主予備軍が影響を受けた。
新しい「しつけ法」が輸入されると、吟味せずに闇雲に紹介した。
「外国は進んでいる」という思い込みで、賞賛して記事にした。
その影響は、かなり世間に浸透した。
例えば「絶対に叱らない!!誉めて誉めまくる!!」
それを信じ込んで実行した飼主は、思うようにいかなくなると犬を虐待した。
そういう例が相当にあったようだ。
或いは真逆に、「絶対に舐められてはいけない!!絶対君主になれ!!」
それを信じ込んで実行した飼主は、際限なくエスカレートして犬を虐待した。
そういう例が相当にあったようだ。
犬の教導は、実にさまざまな複合要素で成り立つ。
さまざまな要素が複雑に絡み合い、その果ての教導だ。
だから断片では語れない。局限的には語れない。
時に厳しく、時に自由闊達に、時に毅然と、時に大らかに、
時に掟の中で、時に制御の中で、時に許しの中で、時に解放の中で、
その時その時で、その子その子で、自在に対処しながら教導が進む。
だが専門家と称する人の多くが、一面的に語ってしまう。
だから「極端」に解釈する飼主が多い。
教導にマニュアルなど無い。
あるとすれば「心得・心構え」だ。
飼主が「把握・判断」のための感覚を磨くことが、即ち教導力を高めることに直結する。
つまり飼主自身が、己の感覚を練磨していくのだ。
そうなれば、自然と適確な判断ができるようになる。
適確な判断ができれば、あとは「対処」だ。
その対処も、感覚が磨かれれば、自然に行動となって現われるようになる。
つまり「感覚」は、それほど重大であり、根本だ。
だが、この「感覚」を会得するには、本気の集中力が必要だ。
本気の集中力で犬と対峙していかねば会得できない。
しかし犬を飼う以上、そのくらいの努力を惜しんではならない。
そのくらいの努力は当然なのだ。
なにしろ、「命」を家族に迎えるのだから・・・・・
世間には、犬が苦手な人も多い。犬が嫌いな人も多い。
だから飼主は、それを充分に承知しておかねばならない。
まず、その人を見る。瞬間に本気で観察する。
そうすれば、犬が苦手か、或いはどの程度に犬好きか、すぐに分かる。
しかし例え相手が犬好きと公言する場合でも、注意は必要だ。
飼主はいつでも瞬時に対応できる態勢を整えておくべきだ。
相手が犬を連れていれば、なおさらに厳重注意が必要になる。
意外に「平気」な飼主が多いが、いつ不測の事態が起こるかも知れないのだ。
決して「神経質」であってはならないが、呑気ではいけないのだ。
二十数年前、まだ人里近くに住んでいた頃には、私は万全の注意を実行した。
その頃は強力な大型犬種たちのトレイニングをしていたので、特に注意した。
だがその後、「ペット雑誌」などは呑気な記事を書き始めた。
「ノーリードで、こんなに楽しいお散歩!!」みたいな記事を書いていた。
まるで、街でノーリードで散歩できることが理想形のような書き方だった。
その後「ドッグラン」が登場してからも、呑気な風潮は続いた。
「ドッグラン」がアクシデントの危険性に満ち満ちていることなど、
最初から火を見るよりも明らかなのに、誰もが呑気だった。
アクシデントが起こるようになって、それで初めて気付いたようだが、遅すぎる。
なぜ「想像」できないのか??なぜ予測できないのか??
私にはそれが不思議でならなかった・・・・・
飼主には判断力・制御力が求められる。
社会に対するマナーが求められる。
だが、犬を嫌う人々にも、大らかさは必要だ。
犬が嫌いだからといって「排斥主義」に走ることは許されない。
元はといえば、人間が社会に犬を呼び込んだのだ。
人間が延々と犬を増やした。
そして冷酷に利用し、冷酷に迫害した。
野生では生きられない身体にして、絶対服従を強要し続けた。
それを忘れて「迷惑だ!!ウザイ!!」と糾弾する権利は人間には無い。
「犬を好きになって欲しい!」などとは期待しない。
「好き嫌い」は理屈ではないからだ。
好きになって欲しいとは言わないが、もう少し大らかな目で見てあげて欲しい。
いくらなんでも「犬が居るだけでウザイ!!」は酷い話だ。
自然界でそんなことを口にする動物はいない。
異種族の存在を否定する排斥主義者など誰もいない。
犬の行動の全てが気に障る人が相当に多い。
これだけ「ペットブーム」と言われながら、実はその反発意識も肥大しているようだ。
その反発意識は相当に過激だ。犬の全否定に等しい。
犬好きたちは、世間の反発意識に鈍い。愛護家たちも鈍い。
反発者たちのWEBのブログなどを見れば意識の実態が分かる。
排斥主義意識は、想像以上に過激さを加速しているのだ。
犬の行動・習性の何から何まで否定されるとなれば、
もはや犬が人間社会に存在する意義など無い。
ただただ犬たちが不幸になるだけだ。
存在を否定されながら存在すれば、そこには迫害と虐待しか生まれない。
「盲導犬」に対してさえも、内心では「ウザイ!!」と感じている人がいるのだ。
犬が道で「排尿」するだけで「迷惑!!」と叫ぶ人が多いのだ。
家の中で排尿すれば飼主に怒られて、
家で長時間我慢して、やっと戸外で排尿すれば、今度は人から怒られる。
「排便」を袋に入れて持ち帰るのは当然の義務だが、
「排尿」を否定されるということは何を意味しているのだろうか??
もはや犬が人間社会に生きる余地が無くなる日が近いかも知れない。
世間に動物虐待が増え続けているのも頷ける。
「なんで虐待するの??」と不思議がる人が多いが、不思議ではないのだ。
世間には、動物否定意識が巨大に潜在しているのだ。
飼主はそれを知り、注意を払い、愛犬を護らねばならない。
一方では犬を過保護に溺愛し、一方では簡単に飼育放棄する。
一方では放任し、一方では過剰制御で支配する。
一方では愛護を謳い、一方では徹底した排斥意識が潜在する。
実に極端な世界だ。
なぜ極端が生じるかと言えば、「核心」が見えていないからだ。
いや、核心を探ろうとしないからだ。
大自然は自然体で偉大な調和を展開する。
それが如何に凄いことか!!!
飼主が心構えを持たないと、不幸な犬が続出する。
そしてそれを救おうと愛護家が行動する。
だが、実際に我が身を削って行動するのは一個人が多い。
常に里親が見つかればいいが、現実には極めて困難だ。
「里親を探せばいいのに!!」と簡単に評論するが、現実は困難だ。
そうして保護犬が増えていけば、やがて崩壊する。
愛護団体の多くは、その崩壊の後で登場する。
個人愛護家が独力で悪戦苦闘している時、手を差し伸べる団体は極めて少ない。
個人が力尽きて崩壊した後で登場して「名誉」を掴むケースも多いのだ。
力尽きた個人愛護家は、世間から袋叩きにされる。
犬嫌い派からは「迷惑野郎!!」と罵られ、
犬好き派からは「虐待者!!」と罵られ、
つまり、世間の全てから叩かれる。
そこには、ひとかけらの労いの言葉も無い。
崩壊など目指すはずが無い。
犬たちの幸せを願わぬはずが無い。
ただ、「力不足」だった。
ただ、「力及ばず」だった。
何とかしなければ!!と苦悩しただろう。
精神は追い詰められ、ボロボロになっただろう。
だが、世間は「結末」しか見ない。
「無理なら多頭飼いなんかするんじゃねえ!!」の一言で終わる。
だが、捨てたのは誰なのか??
誰が里親に立候補してくれたのか??
どうやって援助など頼むのか??
「好き勝手に犬を増やしている人に何で援助するの??」この一言で終りだ。
有名な大手の団体ならば寄付が集まる。
だがその団体は、個人愛護家の支援などしない。
人々は「なんで崩壊する前に対策しないんだ!!」と叫ぶ。
だがその人たちは保護活動の「孤立無援」の現実を知らない。
机上で愛護論を交わすことはたやすい。
自分自身は何のリスクも負わずに評論するだけなら誰でもできる。
「周囲の環境・施設の環境・充分な資金・時間」・・どれもが必須条件だ。
だがその条件など、普通では満たせるはずが無い。
だがそこに捨てられた命たちがいる。助けたい!!とその人は思った。
犬嫌いの人々から批難されるのなら、まだ理解できる。
だが実際には、愛護を標榜する人たちからの攻撃も多い。
悪徳ブリーダーの崩壊と個人保護活動家の崩壊を、なんで「十把一絡げ」にできるのか??
そこにある「気持ち」は天地の違いがあるというのに、結末だけで断罪する。
悪徳商売飼育と無責任趣味飼育と苦闘の保護飼育が、全く同列に扱われてきたのだ・・・・・
確かに、気持ちだけで保護する「知識不足・技量不足」の愛護家も多いだろう。
だが、それならば傍観せずに、根気よく知識と技量を伝授してあげるべきだ。
或いは、その人をサポートして手伝うべきだ。批判する前に!!
手伝ってみれば分かる。その人がどれほど大変かが・・・・・
崩壊後の処置よりも、崩壊以前の処置の方が遥かに効率的で効果的だ。
おそらく全国には、孤立無援で悪戦苦闘の愛護家が一杯いるはずだ。
そのような人をサポートするネットワークが構築できればと思う。
■書庫に飼育指針記事・愛護関連記事があります。
**** WOLFTEMPLE ****
犬の飼主は、状況判断力が必要だ。
さまざまな場面で、それが必要だ。
把握して、判断して、対処する。
もちろん家でも必要だが、一歩外に出れば、さらにそれが不可欠となる。
それを怠ると、結局は愛犬が苦労を背負うことになる。
それを胆に銘じるべきだ。
書庫の「ドッグラン」等にも書いたが、
本当は飼主が呑気に構えていられる時間など無い。
「静」の状態の中でも、飼主のセンサーは鋭く稼動しているべきだ。
「犬」という動物の本能・習性を知れば、飼主の心構えの重大さが分かるはずだ。
「本能・習性・個性」を常に鑑み、そして次の場面を想定していく。
一刻一刻次々と、予測していく。
予測し、事前に対処し、アクシデントを回避していく。
緊張するという意味ではない。
過度に緊張すれば適確な判断ができなくなるし、犬に緊張感を伝播することになる。
緊張せずに感覚を研ぎ澄ます・・・・毎日意識して練習していけば可能になる。
本当はこの「把握・予測・対処」は当たり前の責務なのだが、意外に呑気な人が多い。
慢心か無知か無関心か???
「神経質」も困ったものだが、「呑気」もまた困ったものだ。
結局は犬が危険に晒されることになるのだ。
日本人は犬との付き合い方で、極端に偏向する場合が多い。
「ペット雑誌」や「テレビ番組」にも罪がある。
それらのメディアは適確な情報を発信せずに「話題性」だけを追いかけた。
そして多数の飼主・飼主予備軍が影響を受けた。
新しい「しつけ法」が輸入されると、吟味せずに闇雲に紹介した。
「外国は進んでいる」という思い込みで、賞賛して記事にした。
その影響は、かなり世間に浸透した。
例えば「絶対に叱らない!!誉めて誉めまくる!!」
それを信じ込んで実行した飼主は、思うようにいかなくなると犬を虐待した。
そういう例が相当にあったようだ。
或いは真逆に、「絶対に舐められてはいけない!!絶対君主になれ!!」
それを信じ込んで実行した飼主は、際限なくエスカレートして犬を虐待した。
そういう例が相当にあったようだ。
犬の教導は、実にさまざまな複合要素で成り立つ。
さまざまな要素が複雑に絡み合い、その果ての教導だ。
だから断片では語れない。局限的には語れない。
時に厳しく、時に自由闊達に、時に毅然と、時に大らかに、
時に掟の中で、時に制御の中で、時に許しの中で、時に解放の中で、
その時その時で、その子その子で、自在に対処しながら教導が進む。
だが専門家と称する人の多くが、一面的に語ってしまう。
だから「極端」に解釈する飼主が多い。
教導にマニュアルなど無い。
あるとすれば「心得・心構え」だ。
飼主が「把握・判断」のための感覚を磨くことが、即ち教導力を高めることに直結する。
つまり飼主自身が、己の感覚を練磨していくのだ。
そうなれば、自然と適確な判断ができるようになる。
適確な判断ができれば、あとは「対処」だ。
その対処も、感覚が磨かれれば、自然に行動となって現われるようになる。
つまり「感覚」は、それほど重大であり、根本だ。
だが、この「感覚」を会得するには、本気の集中力が必要だ。
本気の集中力で犬と対峙していかねば会得できない。
しかし犬を飼う以上、そのくらいの努力を惜しんではならない。
そのくらいの努力は当然なのだ。
なにしろ、「命」を家族に迎えるのだから・・・・・
世間には、犬が苦手な人も多い。犬が嫌いな人も多い。
だから飼主は、それを充分に承知しておかねばならない。
まず、その人を見る。瞬間に本気で観察する。
そうすれば、犬が苦手か、或いはどの程度に犬好きか、すぐに分かる。
しかし例え相手が犬好きと公言する場合でも、注意は必要だ。
飼主はいつでも瞬時に対応できる態勢を整えておくべきだ。
相手が犬を連れていれば、なおさらに厳重注意が必要になる。
意外に「平気」な飼主が多いが、いつ不測の事態が起こるかも知れないのだ。
決して「神経質」であってはならないが、呑気ではいけないのだ。
二十数年前、まだ人里近くに住んでいた頃には、私は万全の注意を実行した。
その頃は強力な大型犬種たちのトレイニングをしていたので、特に注意した。
だがその後、「ペット雑誌」などは呑気な記事を書き始めた。
「ノーリードで、こんなに楽しいお散歩!!」みたいな記事を書いていた。
まるで、街でノーリードで散歩できることが理想形のような書き方だった。
その後「ドッグラン」が登場してからも、呑気な風潮は続いた。
「ドッグラン」がアクシデントの危険性に満ち満ちていることなど、
最初から火を見るよりも明らかなのに、誰もが呑気だった。
アクシデントが起こるようになって、それで初めて気付いたようだが、遅すぎる。
なぜ「想像」できないのか??なぜ予測できないのか??
私にはそれが不思議でならなかった・・・・・
飼主には判断力・制御力が求められる。
社会に対するマナーが求められる。
だが、犬を嫌う人々にも、大らかさは必要だ。
犬が嫌いだからといって「排斥主義」に走ることは許されない。
元はといえば、人間が社会に犬を呼び込んだのだ。
人間が延々と犬を増やした。
そして冷酷に利用し、冷酷に迫害した。
野生では生きられない身体にして、絶対服従を強要し続けた。
それを忘れて「迷惑だ!!ウザイ!!」と糾弾する権利は人間には無い。
「犬を好きになって欲しい!」などとは期待しない。
「好き嫌い」は理屈ではないからだ。
好きになって欲しいとは言わないが、もう少し大らかな目で見てあげて欲しい。
いくらなんでも「犬が居るだけでウザイ!!」は酷い話だ。
自然界でそんなことを口にする動物はいない。
異種族の存在を否定する排斥主義者など誰もいない。
犬の行動の全てが気に障る人が相当に多い。
これだけ「ペットブーム」と言われながら、実はその反発意識も肥大しているようだ。
その反発意識は相当に過激だ。犬の全否定に等しい。
犬好きたちは、世間の反発意識に鈍い。愛護家たちも鈍い。
反発者たちのWEBのブログなどを見れば意識の実態が分かる。
排斥主義意識は、想像以上に過激さを加速しているのだ。
犬の行動・習性の何から何まで否定されるとなれば、
もはや犬が人間社会に存在する意義など無い。
ただただ犬たちが不幸になるだけだ。
存在を否定されながら存在すれば、そこには迫害と虐待しか生まれない。
「盲導犬」に対してさえも、内心では「ウザイ!!」と感じている人がいるのだ。
犬が道で「排尿」するだけで「迷惑!!」と叫ぶ人が多いのだ。
家の中で排尿すれば飼主に怒られて、
家で長時間我慢して、やっと戸外で排尿すれば、今度は人から怒られる。
「排便」を袋に入れて持ち帰るのは当然の義務だが、
「排尿」を否定されるということは何を意味しているのだろうか??
もはや犬が人間社会に生きる余地が無くなる日が近いかも知れない。
世間に動物虐待が増え続けているのも頷ける。
「なんで虐待するの??」と不思議がる人が多いが、不思議ではないのだ。
世間には、動物否定意識が巨大に潜在しているのだ。
飼主はそれを知り、注意を払い、愛犬を護らねばならない。
一方では犬を過保護に溺愛し、一方では簡単に飼育放棄する。
一方では放任し、一方では過剰制御で支配する。
一方では愛護を謳い、一方では徹底した排斥意識が潜在する。
実に極端な世界だ。
なぜ極端が生じるかと言えば、「核心」が見えていないからだ。
いや、核心を探ろうとしないからだ。
大自然は自然体で偉大な調和を展開する。
それが如何に凄いことか!!!
飼主が心構えを持たないと、不幸な犬が続出する。
そしてそれを救おうと愛護家が行動する。
だが、実際に我が身を削って行動するのは一個人が多い。
常に里親が見つかればいいが、現実には極めて困難だ。
「里親を探せばいいのに!!」と簡単に評論するが、現実は困難だ。
そうして保護犬が増えていけば、やがて崩壊する。
愛護団体の多くは、その崩壊の後で登場する。
個人愛護家が独力で悪戦苦闘している時、手を差し伸べる団体は極めて少ない。
個人が力尽きて崩壊した後で登場して「名誉」を掴むケースも多いのだ。
力尽きた個人愛護家は、世間から袋叩きにされる。
犬嫌い派からは「迷惑野郎!!」と罵られ、
犬好き派からは「虐待者!!」と罵られ、
つまり、世間の全てから叩かれる。
そこには、ひとかけらの労いの言葉も無い。
崩壊など目指すはずが無い。
犬たちの幸せを願わぬはずが無い。
ただ、「力不足」だった。
ただ、「力及ばず」だった。
何とかしなければ!!と苦悩しただろう。
精神は追い詰められ、ボロボロになっただろう。
だが、世間は「結末」しか見ない。
「無理なら多頭飼いなんかするんじゃねえ!!」の一言で終わる。
だが、捨てたのは誰なのか??
誰が里親に立候補してくれたのか??
どうやって援助など頼むのか??
「好き勝手に犬を増やしている人に何で援助するの??」この一言で終りだ。
有名な大手の団体ならば寄付が集まる。
だがその団体は、個人愛護家の支援などしない。
人々は「なんで崩壊する前に対策しないんだ!!」と叫ぶ。
だがその人たちは保護活動の「孤立無援」の現実を知らない。
机上で愛護論を交わすことはたやすい。
自分自身は何のリスクも負わずに評論するだけなら誰でもできる。
「周囲の環境・施設の環境・充分な資金・時間」・・どれもが必須条件だ。
だがその条件など、普通では満たせるはずが無い。
だがそこに捨てられた命たちがいる。助けたい!!とその人は思った。
犬嫌いの人々から批難されるのなら、まだ理解できる。
だが実際には、愛護を標榜する人たちからの攻撃も多い。
悪徳ブリーダーの崩壊と個人保護活動家の崩壊を、なんで「十把一絡げ」にできるのか??
そこにある「気持ち」は天地の違いがあるというのに、結末だけで断罪する。
悪徳商売飼育と無責任趣味飼育と苦闘の保護飼育が、全く同列に扱われてきたのだ・・・・・
確かに、気持ちだけで保護する「知識不足・技量不足」の愛護家も多いだろう。
だが、それならば傍観せずに、根気よく知識と技量を伝授してあげるべきだ。
或いは、その人をサポートして手伝うべきだ。批判する前に!!
手伝ってみれば分かる。その人がどれほど大変かが・・・・・
崩壊後の処置よりも、崩壊以前の処置の方が遥かに効率的で効果的だ。
おそらく全国には、孤立無援で悪戦苦闘の愛護家が一杯いるはずだ。
そのような人をサポートするネットワークが構築できればと思う。
■書庫に飼育指針記事・愛護関連記事があります。
**** WOLFTEMPLE ****