<2008年6月12日>

「道」とは、目指すもの、私はそう解釈している。

だから道には終りがない。果てなく続く。

道は、完結などしていない。

だから延々と毎日、目指していく。

「目指す姿勢」・・・私はそれが重大だと思っている。

目指す日々の中で、心も身体も、そこに向かっていく。

その積み重ねで、だんだんイメージが鮮烈になっていく。

借りてきたイメージではなく、己から出たイメージとなっていく。

そしてそのイメージが、延々と洗練されていく。


ひとつのものが己の身となるまで、延々と掛かる。

借りてきたものでなく自分のものとなるまで、延々と掛かる。

いかなる時でも「自分の言葉」で出てくるまでに、延々と掛かる。

だから常に目指す。

目指さなければ一歩も前に進めない。

常に「理想」を目指す。

「それは理想にすぎないから・・・・」とあきらめたら、そこで終わる。

理想を放棄したら、当然、そこに辿り着く確率は「0%」だ。

理想は理想で例え無理に等しくとも、目指せばその半分まで辿り着くかも知れない。

「0%と50%」、その差は大きい。

大きいどころか、決定的に別世界だ。

だから目指す。ドン・キホーテのように。


例えば武道。例えば空手。私の私観。

一本の「突き」が己の突きになるまで、延々と掛かる。

いかなる場面でも「己の突き」で出せるまで、延々と掛かる。

だから、いつもいつも「基本!!」と言われる。

基本があるから組み手に進める。

基本なしに組み手に進めば、それは自己流喧嘩になってしまう。

だったら空手など稽古する必要はなくなる。

自己流喧嘩道を磨けばいい。

だが本気でそれを練磨するなら、いずれ「基本」を中心に据えることになる。

何故なら、基本なしには進化が鈍り、やがて進化できなくなるからだ。

「進化を目指す」ということになれば、堅固な土台が必要になるのだ。

どの道にせよ、堅固な土台を成すために地味な基本に汗を流す。

私はボクシング・チャンピオンの「トレイニング・ビデオ」を観るのが好きだ。

その誰の練習光景も凄いが、全盛時のタイソンとロイ・ジョーンズが印象に残っている。

タイソンなど、試合以上の迫力を感じた。むしろトレイニング光景に天才性を感じた。

チャンピオンたちは、全集中力を賭けてトレイニングする。

彼らは、トレイニング自体が並外れている。

彼らは常に、より高い領域を目指し続ける。


武道は長久の歴史の中で、延々と洗練されてきた。

ひたすら「理想」を目指してきたはずだ。

誰も「完結」など頭に置いていないはずだ。

目指す道だから、「武道」と名乗っているはずだ。

「武士道」も、目指す道のはずだ。

「そうありたい!!」という理想を目指す道だ。

誰も武士道の美学のままには生きられない。

だが、だからこそ、その美学を貫こうと目指す。

その「目指す姿勢」、それこそが武士道だと、私はそう感じる。

武士道は、武士が戦乱を勝ち抜くための術ではない。

戦乱を勝ち抜くためには戦術・武術がある。

武士道は勝負とは別の領域の、勝負を超越したところに潜んでいる。

武士道は、「目指す者」が心に秘めた心の羅針盤なのだ。

例えそのままには生きられなかったとしても、

その理想を目指そうとした精神が尊いと思うのだ。

武士道はもちろん、闘争奨励思想ではない。その逆だ。

肚を据えて沈着を保ち、克己心を養い、卑怯を嫌い、仁義礼を極めんとする思想だ。

現代社会では武士道を闘争に結びつける人が多いようだが、それは誤解だ。

或いは、「武士道」という名前が誤解を呼ぶのかも知れない。

西洋で「騎士道」が偏見の目で見られることは少ないだろうに、

武士道という言葉は何故か誤解されがちだ・・・・・

社会に「目指そうとする意識」が失われた時、美しい無言の秩序も失われる。

己を律する克己心が軽視され、自己愛に溺れ、己が己の自己愛に壊される。

「要求」だけが頭を支配し、常に欲求不満となり、不満迷路から脱出できなくなる。

武士道の「目指すスピリット」は、今こそ参考にすべきだと感じる。

「忍」が敬遠され「義」が敬遠されれば、社会は勝手優先の無秩序になる・・・・・


「煩悩無尽誓願断」・・・・

煩悩など、絶えるはずがない。

知らず知らずに、常に湧き起こる。

だがそれを放っておけばどうなるか??

煩悩地獄だ。脱出不能の煩悩迷路だ。

だから常に目指す。

少しでも煩悩を断とうと試みていく。

煩悩を断つことなどできないが、「断とう!」と目指すことはできる。

その「目指す姿勢」が尊いのだと思う。

目指していくと、いつしか煩悩は薄れていく。

消滅することは無くとも、相当に薄れていく。

例え煩悩が湧き起こっても、すぐに忘れることができる。

煩悩に囚われずに、執着することなく、解放される。

そうなれば、俄然、自由自在になれる。

些細なことが気にならなくなり、いつも前を向いていられる。

煩悩に執着するエネルギーは莫大だ。

だがそこから解放されれば、そのエネルギーを別方向に有効利用できる。

強力な集中力で、その莫大なエネルギーを有効活用できるのだ。

そうなれば人生は相当に変わるだろう。

存分に潜在力を発揮して、充実の人生を成せるだろう。

誰でもそれが可能なはずだ。

問題は「目指すか目指さないか」、それだけだと思う。

今日食う飯が無くとも目指せるか??

今日食う飯が無くとも目指せたら、潜在力の炸裂する日は必ず来る。


華厳仏教は、はるかな理想世界だと評されることが多かった。

「深遠な哲理だが、理想に過ぎる」と言われることが多かった。

だが、宇宙の本源・仏の智慧が、人間界から見て理想領域なのは当然だ。

だが、だからといって最初から拒否すれば、永遠に辿り着けない。

だが、目指せば、必ず近づく。

「あらゆる命の、絶対平等の尊厳」

これを基軸に偉大な調和が展開していると華厳は語る。

これを単なる理想論ととるか「実感」に向かって目指すか、大きな分かれ道だ。

華厳は、「目指す尊さ」を語っている。


◆菩薩誓願歌◆

衆生無辺誓願度

煩悩無尽誓願断

法門無量誓願知

大悲無上誓願證


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