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<2008年6月5日>

動物たちから学ぶものは無限にある。

◆愛・勇気・忍耐・尊義・禅心・調和・死生観◆

彼らと対峙し、彼らを心観すれば、彼らの真の実像が見える。

その姿のその奥に、その行動のその奥に、必ず何かが隠されている。

どんな動物からも、どんな子からも、学べる。

ペットと呼ばれようが、家畜と呼ばれようが、

姿は「必然」から離れようが、身体能力は著しく衰退しようが、

彼らの奥底には、大自然のスピリットが密かに鼓動している。

彼らの誰もが、無限に深い精神領域を教えてくれるのだ。


だが人々は、その学びを放棄している。

いや、学ぼうとさえしていない。

「学ぶ」という発想すら持たない人が多い。

「動物!」の一言で、「畜生!」の一言で、「獣!」の一言で、全てを終わらせる。

人間は「動物的」という言葉を使う。

相手を見下す時・相手を否定する時に使用することが多い。

その場合の「動物的」は、「理性的」の対極として使われる。

つまり動物は、一片の理性も持たないかのように、思われている。

だが、理性が無ければ大自然では生きていけない。

大自然は人間界以上に、理性と克己が求められる世界なのだ。

人間界で口にする理性は「溜め込んだ知識による思考・己の倫理観による抑制」だ。

だが大自然の理性は次元が異なる。

深秘の調和を成すための「理」から生まれる精神だ。

「動物には理性が無いから、学ぶものなど微塵も無い」と、多くの人間が誤解する。

だが人間は、自分たちの理性の次元を自ら深く見つめてみるべきだ。


人間に飼われた動物は、本来とは異なる環境の中で、本来とは異なる生活を送る。

しかしその不本意な状況下に於いても、動物には本来の本能が息づいている。

だから人間社会での動物の行動が、「理性無き蛮行」に見えてしまうのだ。

人間社会の中での動物は、不本意な状況下で、常に葛藤しながら生きている。

本来の本能と「飼われた動物の立場」との間で、常に葛藤と闘っているのだ。

彼らは常に、人間以上の「抑制」を心掛けているのだ。

それを知るだけでも、大きな学びになる。


動物たちは互いに学び合う。

種の違いを超えて学び合う。

大自然の全てから学ぶのだ。

それに引き換え、人間は学ぶ心に乏しい。

人間界の知識だけを絶対視して異世界には目を向けない。

人間の精神を唯一至高として異種族の精神を学ぼうとしない。

何故こんなに閉鎖的な優越主義に陥ってしまったのか??

世間は「エコ!!」と叫び、「生態系!!」と頻繁に口にする。

だが生態系とは、「結果としての姿」なのだ。

大自然に棲む命たちの精神が協調して織り成す御業の賜物なのだ。

生態系とはシステムではなく、命たちの壮大なシンフォニーなのだ。

生態系の実像を知るには、「大自然の精神」を知らねばならないのだ。

そして身近にそれを教えてくれるのが、伴侶動物たちなのだ。


動物たちからの学びのハイライトは「死生観」だ。

彼らの生きる姿勢は、彼らの死生観から導き出されている。

その死生観が、野性の生命力を生み出しているのだ。

その死生観が、不屈の勇気を、忍耐を、果敢さを、生み出しているのだ。

彼らは、己の全てで生と対峙し、己の全てで死と対峙する。

彼らは、生と死が不可分であることを教えてくれる。

全霊で生と対峙することは死と対峙することであり、

全霊で死と対峙することは生と対峙することであると教えてくれる。

生を知ることが死を知ることであり、死を知ることが生を知ることだと教えてくれる。


日常の生活の中で、仕事の中で、心は泡にまみれる。

泡にまみれて自分の本心さえ見えなくなる。

そのような状態では、動物たちの真の姿を見ることはできない。

真の姿を見れなければ、学ぶこともできない。

そんな時、野性禅が役立つ。

だから私は、毎日野性禅に入る。

野性禅に入ると、見えないものが見えてくる。

感応の中で、動物たちからの伝言がインスパイアされる。

私はそれをブログに綴っている。

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