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<2008年6月3日>

動物に「心」がある。

動物に「感情」がある。

動物に「痛覚」がある。


動物は「痛い!!」と感じる。

痛いと感じるから悲鳴をあげる。

痛いと感じるから涙を流す。

生命存続のために、あらゆる動物が「痛覚」を備えているのだ。


動物は「恐怖」を感じる。

恐怖を感じるから震える。

恐怖を感じるから、処刑場へ運ばれることを拒む。

トラックに乗ることが何を意味しているのか、知っているのだ。

知っているから、恐怖に怯える。

その声は悲痛だ。耳を離れない。

夜の闇に、哀願の悲鳴が響き渡る。

「許してください!! どうか、許してください!!」


動物の心は極限まで辛さに耐える。

苦しくても、苦しくても、あきらめずに頑張り抜く。

だが、動物の心は最後に、絶望に沈む。

そこが地獄であること知り、ついに絶望に沈む。


殺すとか殺さないとか、食うとか食わないとか。

そのような論議はいたるところで延々と続く。

「殺す・殺さない」「食う・食わない」 焦点はただそれだけだ。

焦点がそこだけならば、非情な理屈も容易に通用する。

だが願う。「動物の心」への視座も持ってもらいたいと。

考えてみて欲しい。

動物の感じる痛みを、動物の感じる苦しみを、動物の感じる恐怖を・・・・・

その視座で考えれば、安易な発言など通用しなくなるはずだ。

そして新たな観点からの論議が展開していくはずだ。


捨て犬捨て猫の問題。延々と続く。

何故、安易に売るのか??

何故、安易に飼うのか??

何故、世話をしないのか??

何故、虐待するのか??

何故、飼育放棄するのか??

何故そんなにも簡単に放棄できるのか??

一緒に暮らせば、彼らに心があることが分かるはずなのに・・・・・

彼らが痛みと苦しみと不安と恐怖を感じる命であることが、分かるはずなのに・・・・・

だが、分からない人がいる。

或いは、たとえ分かっても、冷酷でいられる人がいる。

そういう人に飼われれば、もはや悲劇は目に見えている。

虐待と放棄が待ち受けていることが、火を見るよりも明らかなのだ。

そのような人に飼われた子は、どれほど不安の毎日だろうか。

かれらの不安と孤独が、痛いほど胸に伝わる。

世の中が、そのような飼主を許さなくなればいい。

しかし、そのような飼主も、世間から許されている。

世論が容認しているから、後から後から冷酷非情な飼主が登場する。

世論が容認しているから、彼らは何の罪悪感も持たない。

彼らに良心の呵責もなく、彼らは「普通の行為」だと信じ込んでいる。

社会通念が、未だ「動物の尊厳」への関心まで至っていないのだ。

だからこれほど動物への横暴が大手を振って歩いているのだ。

「都合で飼えなくなった。どこが悪いの??」

その「都合」が、あまりにも身勝手な場合が多いのだ。

だが彼らは自分の身勝手に気付かない。世論が許すから、気付かないのだ。

世間の人の多くが、「だって、しかたのないこと!!」と思っている。

つまりそれが、今の世論だ。

だから世論は、身勝手な飼主を容認する。

これでは永遠に飼育放棄はなくならないだろう。

「しかたのないこと」とは、「殺処分を容認する」という意味だ。

世論がそうなのだから、飼育放棄者も罪悪感に悩んだりはしないだろう。

私は、ペットショップの前を歩けない。

そこに見える子の何割かは、多分幸せにはなれないからだ。

それを想うと、平静ではいられなくなる。


子供の頃に、「それは酷いこと!!それは可哀想だよ!!」と諭されれば、随分と違う。

子供心に、命の重さを考える。 そしてその想いは永遠に残る。

だが長い間、その教育は軽視されてきた。

その結果が、見事に具現されている。

心は、いつも確実に、社会に反映される。

応当如是観 一切従心転

応観法界性 一切唯心造


動物達の受難は果てしなく続く。

その苦しみの悲鳴が地球を覆い尽くしている。


■写真「1」は生後2週間。私に語りかけています。写真「2」は生後30日。

**** WOLFTEMPLE ****