

















動物に「心」がある。
動物に「感情」がある。
動物に「痛覚」がある。
動物は「痛い!!」と感じる。
痛いと感じるから悲鳴をあげる。
痛いと感じるから涙を流す。
生命存続のために、あらゆる動物が「痛覚」を備えているのだ。
動物は「恐怖」を感じる。
恐怖を感じるから震える。
恐怖を感じるから、処刑場へ運ばれることを拒む。
トラックに乗ることが何を意味しているのか、知っているのだ。
知っているから、恐怖に怯える。
その声は悲痛だ。耳を離れない。
夜の闇に、哀願の悲鳴が響き渡る。
「許してください!! どうか、許してください!!」
動物の心は極限まで辛さに耐える。
苦しくても、苦しくても、あきらめずに頑張り抜く。
だが、動物の心は最後に、絶望に沈む。
そこが地獄であること知り、ついに絶望に沈む。
殺すとか殺さないとか、食うとか食わないとか。
そのような論議はいたるところで延々と続く。
「殺す・殺さない」「食う・食わない」 焦点はただそれだけだ。
焦点がそこだけならば、非情な理屈も容易に通用する。
だが願う。「動物の心」への視座も持ってもらいたいと。
考えてみて欲しい。
動物の感じる痛みを、動物の感じる苦しみを、動物の感じる恐怖を・・・・・
その視座で考えれば、安易な発言など通用しなくなるはずだ。
そして新たな観点からの論議が展開していくはずだ。
捨て犬捨て猫の問題。延々と続く。
何故、安易に売るのか??
何故、安易に飼うのか??
何故、世話をしないのか??
何故、虐待するのか??
何故、飼育放棄するのか??
何故そんなにも簡単に放棄できるのか??
一緒に暮らせば、彼らに心があることが分かるはずなのに・・・・・
彼らが痛みと苦しみと不安と恐怖を感じる命であることが、分かるはずなのに・・・・・
だが、分からない人がいる。
或いは、たとえ分かっても、冷酷でいられる人がいる。
そういう人に飼われれば、もはや悲劇は目に見えている。
虐待と放棄が待ち受けていることが、火を見るよりも明らかなのだ。
そのような人に飼われた子は、どれほど不安の毎日だろうか。
かれらの不安と孤独が、痛いほど胸に伝わる。
世の中が、そのような飼主を許さなくなればいい。
しかし、そのような飼主も、世間から許されている。
世論が容認しているから、後から後から冷酷非情な飼主が登場する。
世論が容認しているから、彼らは何の罪悪感も持たない。
彼らに良心の呵責もなく、彼らは「普通の行為」だと信じ込んでいる。
社会通念が、未だ「動物の尊厳」への関心まで至っていないのだ。
だからこれほど動物への横暴が大手を振って歩いているのだ。
「都合で飼えなくなった。どこが悪いの??」
その「都合」が、あまりにも身勝手な場合が多いのだ。
だが彼らは自分の身勝手に気付かない。世論が許すから、気付かないのだ。
世間の人の多くが、「だって、しかたのないこと!!」と思っている。
つまりそれが、今の世論だ。
だから世論は、身勝手な飼主を容認する。
これでは永遠に飼育放棄はなくならないだろう。
「しかたのないこと」とは、「殺処分を容認する」という意味だ。
世論がそうなのだから、飼育放棄者も罪悪感に悩んだりはしないだろう。
私は、ペットショップの前を歩けない。
そこに見える子の何割かは、多分幸せにはなれないからだ。
それを想うと、平静ではいられなくなる。
子供の頃に、「それは酷いこと!!それは可哀想だよ!!」と諭されれば、随分と違う。
子供心に、命の重さを考える。 そしてその想いは永遠に残る。
だが長い間、その教育は軽視されてきた。
その結果が、見事に具現されている。
心は、いつも確実に、社会に反映される。
応当如是観 一切従心転
応観法界性 一切唯心造
動物達の受難は果てしなく続く。
その苦しみの悲鳴が地球を覆い尽くしている。
■写真「1」は生後2週間。私に語りかけています。写真「2」は生後30日。
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