

大自然の食物連鎖を「弱肉強食」と呼ぶ人が多い。
だが大自然には、弱者も強者もいない。
大自然には弱者も強者も、そして支配者もいないのだ。
食われるから「弱い」のではない。食うから「強い」のではない。
強いとか弱いとか、食うとか食われるとか、それは視覚に映る断片にすぎない。
食う者も、食われる者も、同等に、献身の使命に生きているのだ。
食う者も食われる者も同等に、偉大な調和を生み出すために献身しているのだ。
食う者も、やがて食われる。食う者も最後には食われるのだ。
食う者は、それを知っている。己の運命を知っているのだ。
食う者は、その運命を嘆いたりはしない。
食う者も食われる者と同様に、己だけの延命に妄執したりはしないのだ。
食う者は、自分が強者だなんて微塵も思っていない。
食う者は、食われる者が弱者だなんて微塵も思っていない。
食う者は、食うことが当然だなんて、これっぽっちも思っていない。
食う者も食われる者も、この大自然界に支配者なんかいないことを知っている。
誰もが平等の運命を背負っていることを知っている。
誰もが偉大な調和を生み出すための献身の使命に生きていることを、知っているのだ。
食う者も、過酷な試練を受け続ける。
食う者も食われる者と同等に、渾身の力で試練に挑んでいるのだ。
己の全てを賭けて。一瞬一瞬に。全身全霊で。
食う者も、多くが死んでいく。そして他者に食われる。
生き残れる者など、ほんの僅かなのだ。
子供の時から、何日も何日も食えない経験をする。
食う者の多くの子供たちが死に、一握りの子供が生き残る。
そのように食う者も、食われる者と同等の試練を受けているのだ。
しかしその運命の厳しさを、誰も嘆かない。
そこに深い深い悲しみがあっても、だが、嘆くことはしない。
誰もが、己のすべてで、受け止める。
かわいく無邪気な幼い子供も、薄れゆく意識の中で、己のすべてで受け止める。
その運命の厳しさの深奥に隠された調和の本当の正体を知っているからだ。
その運命の厳しさの背後に隠された偉大な調和の姿を知っているからだ。
大自然界のみんなが、誰もが懸命に生きていることを知っている。
だから誰もが、相手を侮ったりはしない。相手を見下したりはしない。
自分が強くて偉いだなんて、誰ひとり思っていないのだ。
人間だけが「弱肉強食」などと発想する。
弱肉強食は、人間世界だけに通用する観念なのだ。
狼は、鹿を食う。
だが狼は、鹿に敬意を払う。
狼は渾身の眼力で鹿を見つめる。
狼は己の全存在を賭けて、その眼力で鹿を射止める。
その時すでに、命の交感が成されたのだ。
その時すでに、命の連鎖の約束が交わされたのだ。
鹿の「最後の息」を、狼が受け止める。
鹿の最後の息が、狼の命に入る。
狼の命を、鹿が支えた。
狼はそれを知っている。
適当な気持ちで食えるはずがない。
だから全霊で食う。
口で食うのではない。
己の身体のすべてで食う。
鹿の命が己の命を支えたことを、狼は骨の髄から知っている。
「お前のお陰で生きられる」、狼はいつもそれを忘れない。
リスペクト。心からの敬意。
それを忘れたら、大自然では生きていけない。
それを忘れた瞬間に、生きていけなくなるのだ。
大自然とは、そういう世界だ。
何よりも重大な、リスペクト。
それをみんなが知っている。
狼の眼を見れば分かる。
狼の眼に、一切の驕りが無いことが分かる。
その眼力の底には、全霊を賭けたリスペクトが潜んでいることが分かる。
狼だけではない。大自然界の誰もがみんなそうなのだ。
人間界の「食」は、大自然の「命の連鎖」とは違う。
根本が違う。決定的に違う。
人間界には、ひとかけらの祈りも無い。
口では「感謝!感謝!」と言うが、本心で感謝などしていない。
本心での感謝があれば、人間界のこの現実は、あり得ない。
本心での感謝があれば、この現実が許されるはずがない。
誰もこの現実を疑問に思わないのだ。
「安い!高い!うまい!まずい!安全!危険!」
誰もが、その視座でしか見ていないのだ。
「グルメ」のために、「欲望の飽食」のために、
姿勢を変えることさえ許さない生産工場で、罪無き命を拷問飼育する。
その冷酷無残な飼育の果てに、過剰な恐怖心を与えて殺す場合も多い。
「より一層の激痛を!!より一層の苦しみを!!その方が美味くなる!!」
そのような、信じ難い発想の残酷屠殺も実在する。本当の話だ。
だから人間は「食」を語れない。語る資格が無いのだ。
語れるとすれば「飽食」の話だ。それについては人間の独壇場だ。人間以外には語れない。
だからその意味では、大自然界は厳しい世界だ。
傲慢者は、恩知らず者は、生きていけないのだ。
一瞬でもリスペクトを忘れたら、調和から外れるのだ。
調和から外れるということは、生きていけないということなのだ。
人間が何故生きていられるか??
実は生きているといっても、未だほんの僅かな時間だ。
人間はその微々たる僅かな間に、調和者の使命を放棄した。
偉大な調和世界からの連絡は、もう届いている。
偉大な調和世界からの最後通告が、もう届いているのだ。
調和者としての使命を放棄し、調和への献身を拒絶し、己の延命だけに執着し、
それでいながら「助けてください!!やさしくしてね!!」では、誰もがあきれる。
そんな身勝手な発想が、調和世界に通用するはずがない。
人間は、もっともっと、野生の命たちの壮絶な献身を学ぶ必要がある。
野性たちの生き様を、「生存本能」の一言で片付ける脳天気な発想では、何も学べない。
野生界のドキュメンタリーを観て「弱肉強食」の感想しか湧かないようでは先が無い。
野性たちが、何故そこまで命懸けになれるのか??
野性たちが、何故そこまで頑張り抜けるのか??
大自然に何故、食物連鎖があるのか??
大自然が何故、美しい調和を保っていられるのか??
大自然の調和は何故、あれほどまでに絶妙なのか??
大自然の絶妙な深秘はどこから生まれ、何故生まれるのか??
人間は「科学」を誇るが、その科学で深秘の調和を再現できるとでも思っているのか??
まさかそこまで愚かではないことを信じたいが・・・・・
森を、歩いた。
狼と、歩いた。
犬たちと、歩いた。
何万時間も、歩いた。
草の匂い。花の香。木々の息遣い。
野ウサギの視線。キツネの視線。カモシカの視線。
夜の森を歩いた。
姿無き小鳥の声。
姿無き大鳥の羽ばたきの音。
響き渡るラップ音。
彼方からの熊の視線。
じっと見つめる視線。
森の命たちの深く澄んだ視線。
切なくなるほどの、真摯な視線。
切なくなるほどの、純情の視線。
時々、たまらなくなって、坐る。
狼が、横に坐る。
狼が、はるか彼方を見つめている。
狼は、森のすべてを知っている。
森の命たちのことを知っている。
狼は彼らの視線を知っている。彼らの視線を受け止めている。
彼らの存在を知りながら、狼はただ深く彼方を見つめる。
狼の心が伝わる。
我が心に、はっきりと伝わる。
私はそれを心に刻む。
私はそれを、いつも心に刻んできた。
野性禅の中で、その時に帰る。
野性禅の中で、大自然に没入する。
大自然の命たちの声が聴こえる。
命たちのハーモニーが聴こえる。
大自然の調べが聴こえる。
大自然の荘厳な音楽が聴こえる。
調和への献身に生きた無数の命たちへの、レクイエムだ。
最後の力を振り絞って使命に生きた命たちへの、リスペクトの歌だ。
「食物連鎖」と、一言で片付ける訳にはいかない。
「命の連鎖」と、一言で片付ける訳にはいかない。
そこには、それぞれの苦闘のドラマがある。
大自然は、そのそれぞれの偉大なドラマを忘れない。
耳を澄ませば聴こえる。
大自然界のレクイエムが。大自然界のリスペクトの歌が。
**** WOLFTEMPLE ****