


夜の山に佇む。
この山の夜は急激に冷える。
深夜は今だに零下の気温となる。
地面に坐って瞑目する。
今年はまだ熊が訪れない。
山に食糧が豊富なことを祈る。
熊、カモシカ、キツネたち。
みんなが充分に食べていることを願う。
犬たちのことを想う。
捨て犬たちのことを想う。
みんなに里親が見つかることを祈る。
最後まで愛してくれる飼主に巡り会うことを祈る。
犬の里親を探すことは至難だ。
子犬ならまだしも、成犬となれば躊躇する人が多い。
あの「ひまわりの歌」のひまわり母子でさえ、
ついに里親が見つからず、職員さんが里親となった。
インターネットを駆使してさえ探せずに、
期限の最後に、愛に溢れた義侠の職員さんが名乗り出たのだ。
ペットショップは犬を買い求める人で賑わうのに、
何故に保健所で死を待つ犬を家族に迎えてくれないのか。
「どんな犬か分からないから・・・」「飼うのが難しい犬だったら困るから・・・」
「雑種じゃあ、嫌だ・・・」「育てた犬じゃないから親近感が湧かない・・・」
おそらく、このような理由で保健所の犬たちは敬遠されるのだろう。
確かに、いろんな性格の犬がいる。個性は実にさまざまだ。
人見知りの犬もいる。懐きにくい犬もいる。腕白な犬もいる。力の強い犬もいる。
だが、だからといって、このままでは済まされない。 彼らは、命なのだ・・・・・
だから、本当は犬のスペシャリストが、懇切丁寧にアドバイスとケアをするべきなのだ。
そうすれば、もっと多くの人が安心して里親の名乗りを挙げられるだろう。
そして肝心は、里親が引き取った後のフォローだ。
実際、里親の元から返される犬も非常に多いのだ。
せっかく里子に行っても、そのまま幸せに暮らせる確率は非常に低いのだ。
確かにいろんな事情が里親側に発生するのだろうが、犬は悲劇だ。
その悲劇を極力無くすために、入念なフォローが絶対に不可欠なのだ。
そういう「フォロー・ネットワーク」の態勢を作ってもらいたい。
私も全力でフォローに当たりたいが、何せ大家族と山に棲んでいる。
しかし「通信フォロー」はできるので、でき得る限りに応えたい。
里親が見つからなければ、殺処分となる。
それを避けるためには、誰かが保護するしかない。
しかし誰かが保護していけば、やがてその誰かに限界が来て破綻する。
その誰かだって、保護犬を増やしたくて増やす訳ではない。当たり前の話だ。
世間は「避妊!去勢!」と簡単に言うが、それには金が掛かるのだ。
そして理解ある協力的な獣医など滅多にいないし、簡単には探せないのだ。
寄付を募るにしても、大手の愛護団体なら可能だが、一個人では不可能に等しい。
保護犬の世話に忙殺され、仕事もままならなくなり、生計は極度に逼迫し、
周囲からの批難の集中砲火を浴び、肉体も精神も徹底的に追い詰められる。
現実に里親を募っても反応が極めて少ないから、その誰かが十字架を背負うのだ。
そして運良く里親が見つかっても、返される犬も多い。
ささいな理由で返されるケースが多いのだ。里子を簡単に見限るのだ。
誰かが自らを犠牲にして犬を救おうとしても、世間の協力は余りにも少ない。
協力しないどころか、その誰かを攻撃する。それが現実だ。
覚悟を持って里親の名乗りを挙げる人は実に稀少だ。
多少の困難が生じても犬を飼い切る覚悟の人は少ない。
結局、保健所はいつも処分犬で満杯だ。一向に減らない。
それなのに世間は、保護に挑んで力尽きた人間だけを責める。
矛盾している。理不尽だ。弱者へのリンチだ。
これでは、原因とプロセスを無視した結果絶対主義だ。
やむなく保護に挑んだ人間の真意を無視して、いつも結末だけをクローズアップするのだ。
この理不尽な風潮を生む精神構造は、ペット虐待・飼育放棄にも直結している。
無力な保護活動家への批難攻撃と、ペットへの冷酷な無責任は、同根から生じるのだ。
WEBで愛護を呼びかける人も大変だが、
実際に多数の保護犬を抱える人は、いつも断崖絶壁の上に立っている。
里親の覚悟をもつ人に、敬意を表します。
動物世界から、深く深く感謝いたします。
もし犬を受け入れる際に「分からないこと・知りたいこと」がありましたら、
ゲストブックにいつでも御相談ください。遠慮なく気軽に御質問ください。
知る限りに、全力で応えます。※もし返信が遅れましたら御容赦ください。
■「ひまわりの歌」は胸を打つ感動のドラマです。偉大な愛の物語です。
■人権考察家が「動物の場合には里親・里子という言葉を使用するな!」と批難しています。
「動物にその言葉を使ったら、人間の里親制度に対して失礼だ!」という理由だそうです。
このような意見は多いと感じます。これに対しては「no164」を御覧ください。
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