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<2008年5月18日>

ペット飼育放棄が延々と続く。

買い求める人がいて、売り捌く人がいて、

無責任に飼育放棄して、保健所が殺処分する。

この構図が延々と終わらない。


なぜ放棄するのか??

動物への尊厳意識など微塵も持たないからだ。

微塵も持たない飼主が後を絶たずに放棄して、いつも保健所は満杯になる。


その対策として、「動物の尊厳」が提唱されるようになった。

大手の愛護団体も、そこに力を入れてきた。

だが現実には、その尊厳意識は世間になかなか浸透しない。

動物の尊厳を世に問えば、必ず反発意見が登場し、いつも振り出しに戻ってしまう。

動物の立場を「過保護」にしようと目論んだ発想ではないのに、

無理難題を突きつける提唱ではないのに、「せめてもの」お願いなのに、

動物の尊厳を口にしただけで、反発心を燃え上がらせる人が多い。

人間が動物たちに行なってきた無数の残酷行為を想えば、

動物の尊厳を世に問うことぐらい、実にささやかな提唱なのに、それすらも拒絶される。


動物の尊厳を理解してくれる人が少しでも増えてくれれば、

ペット飼育放棄も減り、殺処分される動物も減り、行政の負担も減る。

それなのに、動物の尊厳を訴えれば、猛烈な反発心を起こす人がいる。


動物の尊厳が無視されてきた結果、果てしなく大量殺処分が続く。

その理不尽な構図を打開するために根本部分を提唱すれば、それすらも否定される。

次々と別の角度から、「動物の尊厳」に対して反発が起こるのだ。

それならば、一体どうすればいいと言うのだ??

ただでさえ動物を「畜生」と呼んで支配的隷属を強要する世の中なのだ。

そのままなら、永遠に虐待・放棄は続くのだ。


愛護団体が何十年と「ペットは家族です!」と提唱しても、事態は好転しなかった。

テレビが長年に亘り「動物、かわいい!」番組を放送しても、事態は好転しなかった。

「それならば・・・」というせめてもの想いで動物の尊厳を語れば、反発を招くのだ。


人権考察者が、動物の場合には「里親・里子」という言葉を使うな!!と抗議している。

動物保護に里親里子観念を持ち込めば、人間の里親里子制度に対して失礼だ!!と抗議する。

だから動物保護の場合には「里親里子」の言葉を使うな!!無神経だ!!と抗議する。

動物の里親を探すことは至難だ。だから殆どが殺処分される。殺される!!のだ。

その状況の中で、家族として引き取る稀有な飼主を「里親」と呼んで、何が悪いのだろうか??

動物たちは誰も恨まずに、誰も憎まずに、ただ悲しみに耐えて死んでいく。

彼らに対して、終生の責任を覚悟して家族として受け入れる人を、里親と呼んでは不遜なのか??

「動物と一緒にされたら傷つく!!」「動物と一緒にするな!!」と彼らは語る。

だが、ようやくの思いで「動物里親制度」が認知され始めたというのに、

ここまでに至るのに、まさに「イバラの道」だったというのに、

今度はその「動物家族観」さえも猛烈に否定され始めたのだ。

一体、どうすればいいというのだ。これではなすすべが無くなる・・・・・

動物を保護する人は、総じて人間にもやさしい。それは事実だ。

動物愛護の人で、人権活動をやってきた人は一杯いるのだ。

世間はその辺の実情を知らない人が多いのだ。

動物だけを尊重していると思い込んでいるのだ。

それは大きな勘違いだ。その誤解が反発を生む要因になっているのだ。


「己が寂しいから、動物に想いを託す」「愛護活動で己の存在意義を満たそうとしている」

「己の孤独を世間にアピールしている」「孤独者同士が傷の舐め合いをしている」

「高踏的で人を見下している」「自己満足で自己陶酔している」「独善的な屈折者」「愛誤家」

これらは、掲示板でよく目にする愛護家への誹謗だ。匿名で書き込まれる。

そして動物関係者からの書き込みが多いように思える。

動物愛護は魑魅魍魎の世界だ。果敢な発言は即座に内部抗争を引き起こす。

本来なら、動物の尊厳を無視する巨大世間に対して発言すべきなのに、

誹謗者たちは、その矛先を「愛護世界のマイノリティー」に向ける。

愛護といっても、その人その人に深い事情がある。

本気で愛護に動けば、必ず追い込まれ、不本意な状況に沈む。

その不本意な状況での切羽詰った発言は、好き放題に叩かれ、揚げ足を取られる。

誹謗者たちは、いつも虎視眈々と狙っているのだ。

常に監視し、ハンターのように狙いを定めているのだ。

「かわいそう!!」という想いのどこが気に食わないのか??

その純粋な心境が時として過激な発言を招いたとしても、

何故その人間の本心を察してあげられないのか??

動物の尊厳に対して延々と無関心な世間に向けて、

無力を知りながら叫びたくなる純情を、なぜ分かってあげられないのか??

「愛護の方法論が違うから!」と判断したら、即座に攻撃したくなるのか??

攻撃せずにはいられないのか?? そんなに攻撃が好きなのか??

言葉の使い方のひとつでも気に障れば、とことんその言葉を追求せずにいられないのか??

そうなれば「全否定」だ。 何から何まで気に食わず、その人間を粉砕しようとするのだ。


個人で多数の犬を保護した場合、問題は施設だ。施設こそが最大の課題だ。

施設が不備ならば、次から次へと不測の事態が発生する。

不本意なアクシデントが続発し、その対処だけで一日が終わる。

だから安心して仕事にも行けなくなる。仕事中も心配でたまらなくなる。

だが、この「施設」を造るには大変な金額と労力が掛かる。

特に犬の場合には、各部分に入念な工夫が必要になるので、簡単には完成しないのだ。

フェンスと犬舎と各部の入念な施工を実行すれば、相当な大金が必要になるのだ。

だから悪戦苦闘が続く。だからどんどん追い詰められる。

仕事に専念できなくなれば、即座に生計は逼迫する。

もちろん自分も食えなくなる。粗食のレベルを超えた極限食だ。

その人を批難することは簡単だろう。「犬がかわいそう!!」と叫べば済むことだ。

だがその状況は、その人自身が一番辛い状況なのだ。その人が一番苦しんでいるのだ。

その辛い中を、その苦しい中を、それでも己を鼓舞して気丈に初志を貫こうとしている。

その心境を、その本当の本心を、誰も責めることはできない。

だが、世間は責める。 不利に立っても気丈な人間が、どうしても気に食わないらしい。


動物の尊厳を語れば、必ず反発が起こる。

何故ならここは人間社会だからだ。

だが、だからといって傍観していれば、事態は際限なく悪化する。

動物たちの立場から発言する人は余りにも少ない。

だが、誰かが発言しなくてはならない。十字架を背負って。

**** WOLFTEMPLE ****