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<2008年5月14日>

動物の心は、理屈で議論される領域ではない。

理屈でいくら説明しても、永遠に分からないだろう。

実感の世界なのだ。どこまでも実感の世界なのだ。


知ろうと願う人は、いつか実感できるはずだ。

その強い想いは集中を生み、心眼の姿勢を生み、実感するだろう。

だが動物の心など眼中に無い人は、永遠に否定し続ける。

知ろうとする以前に眼中に無く、つまり「どうでもいいこと」なのだ。

「動物はしょせん畜生だ!!心などあるはずが無い!!」と徹底的に否定する。

その「人間絶対主義」という信仰は、実に根深く人間界に浸透している。

これこそが世界最大勢力の「人間崇拝宗教」なのだ。

「人間は特別で、人間の権利は特別で、人間は動物の支配者だ!!」

強烈な教義だ。この教えが骨の髄まで染み込んでいるから、動物の心など認めようがないのだ。

骨の髄まで染み込んでいるから、もはや聞く耳を持たないのだ。

その信仰に染まった人間のブログが無数にある。

それを読めば愕然となる。絶望的になる。いかなる提言も通用しない傲慢世界なのだ。


人間至上思想に、「動物機械論」がある。読んで字の如しだ。

「動物は物であり機械であり、そこに感情など微塵も存在しない!!」

彼らは本気でそれを信じているのだ。心の底からそれを狂信しているのだ。

その人間至上思想が圧倒的勢力で世界を支配しているのだ。

動物・自然界をただの物体と見て、徹頭徹尾に利用目的の対象と見て、

そうして攻撃支配して、そうして大自然を傷だらけにして、そうして地球を破壊して、

しかしそれでもなお、未だにその思想の誤りに気付かずに彼らは妄信している。

対策を叫んでいても、共生を叫んでいても、心の中は相変わらずに旧態然のままなのだ。

もし本気で大自然に敬意を払えるのならば、おのずと動物の心が分かるようになる。

動物の心を無視し続けるなら、それはつまり大自然へのリスペクトなど微塵も無いということだ。

動物たちは、大自然の申し子なのだ。大自然の我が子そのものなのだ。

動物たちは大自然の本当の姿を教えてくれる。

動物たちはいつも我々に重大な真実を伝えてくれる。

なのに人間は、彼らの声を聞こうともしない。「畜生」と蔑むだけなのだ。


「動物の尊厳よりも、まず人間の尊厳の方が急務だろう!!」と語る人が多い。

だがその解釈は誤りだ。両尊厳は不可分に相関しているのだ。

動物の尊厳を思慮した時点で、すでに人間の尊厳も思慮しているのだ。

動物の尊厳を思慮できる慈愛には、当然の如く人間への想いも含まれているのだ。

動物尊厳提唱者は、人間と動物の垣根を持たないだけなのだ。

その「垣根を持たない」思考が、人間絶対主義者には理解不能なだけなのだ。

だが、その「垣根を持たない心」こそが、真の共生への絶対条件なのだ。

動物尊厳提唱者は、だから人種の違い・民族の違いに対しても微塵も偏見を持たない。

動物尊厳提唱者は固定観念に縛られていないから、人間愛にも溢れていると言えるのだ。

だが人間絶対主義者たちは、動物の尊厳を提唱する人々を、徹頭徹尾偏見の目で見ている。

「人間よりも動物が大事なのか??」という一点でしか論考していないのだ。

「人間と動物とどっちが大事なのだ!!」という偏狭な観点でしか見ていないのだ。

だから論議が成立しないのだ。だから論議が迷宮入りしてしまうのだ。


自然界は「弱肉強食」だと誰もが語る。

動物は「生存本能」だけで生きていると誰もが語る。

それは決定的な誤解だ。それが偏見を生む母体だ。

本当は強者も弱者もいない。支配者などいない。

自然界の誰もが同等に試練を受け、誰もが同等に献身している。

そして自然界は、生存本能だけでは生きられない世界だ。

生存本能だけで生きられるような浅薄な世界ではないのだ。

そこは、心に満ち満ちた、理屈を超えた偉大な愛の世界なのだ。


私は動物たちの心を実感してきた。

この心のすべてに、この身体のすべてに、その実感が刻まれている。

だから私は、「動物に心がある!!」と断言する。

たとえ世界中の人間が否定しようとも、その言葉を撤回しない。

私は全世界に向かって「動物に心がある!!」と訴え続ける。

それが私の使命だ。それが私の生きるすべてだ。

「動物たちの心を知ってもらえれば、やがて世界は変わりゆく・・・・・」

私はそれを信じている。 私は「動物に心がある!!!」と断言する。

**** WOLFTEMPLE ****