
動物たちよ、人間はお前たちには心が無いという。
お前たちがあんなに語りかけても、お前たちには心が無いという。
お前たちが泣いても、お前たちが苦しんでも、
お前たちが喜んでも、お前たちが悲しんでも、人間はお前たちに心が無いという。
お前たちがどれほど主人を愛しているか、お前たちがどれほど主人を待っているか、
それを知っているはずなのに、お前たちに心が無いという。
人間は、どうしても、お前たちに、心を認めたくないらしい。
問われれば、「心らしきものはある・・」「感情は少しある・・」と答える人間もいる。
それがお前たちに対する最高の誉め言葉のようだ。
人間からすれば、それでも誉めているつもりなのだ。
お前たちが人間の為にあんなに頑張っても、あんなに献身しても、
人間はお前たちの懸命の心を認めない。いつも「本能」の一言で片付ける。
どうして人間は、動物に心を認めないのか??
どう考えても不自然だ。動物の心を頑迷に認めない思考が不自然だ。
どう考えても不思議だ。動物に心が無いと思い込む人心が不思議でならない。
人間は「鈍い」のだろうか?? 感性が鈍すぎるのだろうか??
本気で動物に心が無いと思っているならば、人間は地球一番の鈍感動物だ。
お前たちが言葉をしゃべれないから、お前たちが字を読めないから、
だからお前たちには知能も心も無いんだと人間は言う。
お前たちが言語対話よりも遥かに深い交信方法を持っていることを、
お前たちのその交感対話は言語対話を超えた深層交信であることを、人間は知らないのだ。
人間はお前たちをバカにする。だがそれが自分の未熟を証明していることに気付かない。
動物酷使も、動物拷問処刑も、動物放棄も、それを平然と眺める世論も、
すべては、「動物の心」を認めていないことが発端となる。
心の存在を認めずに「物」と見れば、どんな酷いことだってできるのだ。
今の人間社会は、まさにそういう状況だ。
つまり動物にとって人間社会は、正真正銘の「地獄」なのだ。
そんな社会でありながら、よくも共生を叫べるものだと、感心するしかない。
犬たちの素晴らしい心。猫たちの素晴らしい心。
馬たちの素晴らしい心。牛たちの素晴らしい心。
私は牛の子の心を知っている。
子牛の心の純情が、この胸を離れない。
子牛は、とても明るくて遊び好きでおちゃめだ。
おどけて遊ぶ姿を見れば、犬と変わらぬ遊び心の持ち主だと分かる。
子牛は本当は、一杯一杯遊んで、一杯一杯感情表現して、そうして大人になるのだ。
その天真爛漫な子牛が、「家畜工場」という地獄で、生まれてから処刑される日までずっと、
「姿勢を変えることさえ許されない極限環境」で拷問飼育されるという。
その暗黒工場の中で生涯の全てを終える子牛たちがいるというのだ。
信じられない話だ。だがこのような工場の存在が社会に許されているのだ。
もし世間が子牛の心を理解できたなら、このような実態は許されないだろう。
だが世間は子牛の心の存在を信じていないから、だからその拷問が許され続けるのだ。
だが、この問題は理屈では解決できない。
相手の心を感じる感じないは、理屈でどうにかなる問題ではないのだ。
異種族の心と交感するための感覚の練磨が、人間界の最大の課題だ。
それは一言で言えば心眼心耳であり、心観であり、共生心だ。
動物の心を知ることは「共生」へと直結している。だが世間はそれに未だ気付かない。
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