<2008年5月13日>

私は驚いた。世間は私の想像以上に「動物の心」を認めていない様子だ。

私は衝撃を受けた。愛犬家でさえ犬の心の存在に半信半疑の様子なのだ。

「心」が無ければ「表現」など出来ないのに、

動物たちの表現は人間以上に感性豊かだと言うのに、

それでもまだ「動物に心はあるのか??」と議論が絶えないのだ。


「心」に対する判断尺度は、「人間界の価値観」が絶対支配している。

言語の使用・読み書き・計算・などなど、人間の価値観で判断している。

それらは本来「心」とは全く別次元の産物なのに、人間は錯覚する。

それらは心ではなく「頭脳器官」の領域にしか過ぎないのだ。

「脳」は肉体の中の超コンピュータのようなものかも知れないが、

それは「心」とも繋がってはいるが、「心そのもの」ではないのだ。

脳は身体を生存させるための「超機能」ではあるが、しかし機能の次元だ。

「心の次元」は、それとは比較不可能な異次元なのだ。

(※機能を使っての「表現」ならば「心の領域」となるが・・・・)


人々は動物が「言語会話」をしないからと言って、動物に心を感じないらしい。

これでは寂しい話だ。これでは「人間の心の不在」を証明しているようなものだ。

人間が自らの「感性の貧しさ」を露呈しているようなものだ。

人間は、なんでこんなに感性が衰えてしまったのだろうか??

言語に頼りすぎて感覚を退化させてしまったのだろうか??

「言語」は一旦構築されれば非常に安易な対話手段となるから、

人間はその「安易な対話」の次元で生活しているのだ。

だから常に感覚を研ぎ澄ませて対話するという緊張感が失われたのだ。

野性界は100%インスピレーショナルな「交感対話」の世界だ。

つまり、野性たちは人間界とは全く逆の対話手段で交信する。

それは感性と感性の交感世界だ。常に「純粋心境」が求められる世界だ。

人間はこの「交感対話」をどうしても理解できないようだ。

動物たちはいつもその方法で発信しているのに、人間はそれをキャッチできない。

人間は言語対話を絶対視し、それ以外を絶対に認めない。

認めないのだからキャッチできるはずが無い。


人間特有の「人間優越意識」は実に強烈だ。

その優越意識が生む偏見と固定観念は実に根深く頑迷だ。

だがその偏見と固定観念を捨てない限り、異種の命の心など永遠に分からない。

傲慢心が生む偏見と固定観念を捨てなければ、共生など永遠に不可能なのだ。


世間は、身近な動物たちの心さえも分からない。

分からないどころか、心の存在さえも否定する。

これでは、地球を壊し続けてきた人類の傾向性と全く変わらない。

地球を決定的に壊した「近代科学思想」は、動物・自然界に、一切精神を認めなかった。

彼らの精神を完全否定し、徹頭徹尾「物」と見たから、だからとことん冷酷になれた。

「物」と見たから、だから手段を選ばぬ残酷行為で壊し続けたのだ。

これほど共生が叫ばれる今の世も、人心の根本は何も変わっていないのだ。

共生の最大条件である「共生心」は、微塵も育っていないのだ。


※未だに世間が動物の心に無関心だと知り、私は衝撃を受けました。

まさか未だに世間がそうであるとは・・・・・・ 悲しいばかりです。

昨日は「伝言の一段落」をお知らせしましたが、これでは一段落どころではありません。

「本」とは別に、このブログでこのまま発信を続けます!!!


※今日は手短に語りましたので、書庫の関連記事を御覧ください。

(「no.83:動物対話世界」「no.11:感応対話」など・・・・・)

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