<2008年5月1日>
昨日「01」を書きましたが、
その著者だけがそのような動物観を持つ訳ではありません。
世間には同様のスタンスの人が大勢いるのです。
だからその本が売れているのです。
メディアが注目し、文化を考察する様々なサークルが注目し、
シンポジウムに招かれ、学校に招かれ、大きく賛辞されたようです。
世間は、愛護の方々の想像以上に、旧来と変わらぬ人間絶対世界のままなのです。
ところで私の文章は人々から賛同を受けにくい文体かも知れませんが、
しかしこれでも、抑えに抑えて遠慮しているのです。
本当はもっともっと烈しく抗議したいのです。
私は動物たちの代弁者として、彼らの真情を野性界の言葉で代弁していますが、
その言葉を「私個人の言葉」として受け止められると、大きな誤解が生じます。
私の文章を「個人の観念」として読まれたら、拒絶感が生まれるでしょう。
私は、人間個人の意見として書いているのではなく、代弁者の立場で書いています。
もしそれを理解してもらえない場合には、印象が全く変わり、拒絶感だけで終わるでしょう。
人間の観念で書けば、文章は変わるでしょう。
世間に受け入れられ易くなるかも知れません。
しかし私は変えるつもりはありません。
これでも随分と、やさしく書いているつもりなのです。
本当なら言葉にできないほどの悲しみを、抑えに抑えて言葉に換えているのです。
毎晩のように夢を見ます。
動物たちの苦しみの姿が、悲しみの姿が、ありありと夢に現われます。
凄まじい苦しみが、凄まじい悲しみが、そのまま心に流れ込んできます。
その光景を、私はすべて憶えています。
忘れることなどできません。忘れようとは思いません。
彼らからの悲痛なメッセージを、忘れる訳にはいかないのです。
だから本当は悠長なことなど言ってられません。
本当は一刻を争う切迫した思いで一杯です。
しかしそれをそのまま書けば、もっと強烈な文章になってしまうから、抑えているのです。
もし私の文章さえも否定されるのならば、
動物たちの真情も、野性界の本意も、ついに理解されぬままに終わるでしょう。
本当ならば、言葉には表現できないスケールの世界なのです!!!
その著者は「人間と動物の境界」を訴えたいのです。
人間と動物の「順列」を訴えたいのです。
常に人間が支配者であり、常に人間が動物の運命を操る立場にあることを訴えたいのです。
世間で動物の尊厳が問われ始めた今、
その著者は何としてでも「人間絶対主義」を譲りたくないのです。
人間の優越意識・特権意識が問われれば問われるほど、
その著者はそれに反発し、世間の意識変革を阻止したいのです。
「肉を食って何が悪い??どう殺そうと勝手だろ!!人間が一番偉いんだ!!」
著者はその自説を押し通すために、巧みな表現で世間を惑わします。
著者は「人間の権利」を標榜し、「人道」を標榜し、「人間讃歌」を標榜します。
残酷な殺生が人間自身を自傷しているという根本義を知らず、
残酷な殺生が人間自身を苦しめているという根本義を知ろうともせず、
ただ表層だけの権利意識で「人間万歳!!!」を叫んでいるのです。
世間は一方で「共生」を謳い、片や一方で「人間絶対」を謳っているのです。
つまり「支離滅裂」なのです。
世間は、己の支離滅裂に全く気付いていないのです。
だから論議が一向に進展しないのです。
そこに「核心義」が不在だから、だから真の人道論議・真の共生論議に辿り着けないのです。
世間は巧みな虚言に惑わされ、「共生心」の萌芽は潰される怖れがあります。
そして人間絶対主義は、当分世論を支配していくでしょう。
その思想の意識は実に根深く人間の心に刻み込まれているのです。
その本は人間特有意識の見本として参考になると思います。
人間絶対主義の冷酷非情を描いた本として参考になるはずです。
私は常に「世間」相手に抗議していますので本の名は伏せますが、
「屠畜:とちく」で検索すれば題名が分かるはずです。
**** WOLFTEMPLE ****
昨日「01」を書きましたが、
その著者だけがそのような動物観を持つ訳ではありません。
世間には同様のスタンスの人が大勢いるのです。
だからその本が売れているのです。
メディアが注目し、文化を考察する様々なサークルが注目し、
シンポジウムに招かれ、学校に招かれ、大きく賛辞されたようです。
世間は、愛護の方々の想像以上に、旧来と変わらぬ人間絶対世界のままなのです。
ところで私の文章は人々から賛同を受けにくい文体かも知れませんが、
しかしこれでも、抑えに抑えて遠慮しているのです。
本当はもっともっと烈しく抗議したいのです。
私は動物たちの代弁者として、彼らの真情を野性界の言葉で代弁していますが、
その言葉を「私個人の言葉」として受け止められると、大きな誤解が生じます。
私の文章を「個人の観念」として読まれたら、拒絶感が生まれるでしょう。
私は、人間個人の意見として書いているのではなく、代弁者の立場で書いています。
もしそれを理解してもらえない場合には、印象が全く変わり、拒絶感だけで終わるでしょう。
人間の観念で書けば、文章は変わるでしょう。
世間に受け入れられ易くなるかも知れません。
しかし私は変えるつもりはありません。
これでも随分と、やさしく書いているつもりなのです。
本当なら言葉にできないほどの悲しみを、抑えに抑えて言葉に換えているのです。
毎晩のように夢を見ます。
動物たちの苦しみの姿が、悲しみの姿が、ありありと夢に現われます。
凄まじい苦しみが、凄まじい悲しみが、そのまま心に流れ込んできます。
その光景を、私はすべて憶えています。
忘れることなどできません。忘れようとは思いません。
彼らからの悲痛なメッセージを、忘れる訳にはいかないのです。
だから本当は悠長なことなど言ってられません。
本当は一刻を争う切迫した思いで一杯です。
しかしそれをそのまま書けば、もっと強烈な文章になってしまうから、抑えているのです。
もし私の文章さえも否定されるのならば、
動物たちの真情も、野性界の本意も、ついに理解されぬままに終わるでしょう。
本当ならば、言葉には表現できないスケールの世界なのです!!!
その著者は「人間と動物の境界」を訴えたいのです。
人間と動物の「順列」を訴えたいのです。
常に人間が支配者であり、常に人間が動物の運命を操る立場にあることを訴えたいのです。
世間で動物の尊厳が問われ始めた今、
その著者は何としてでも「人間絶対主義」を譲りたくないのです。
人間の優越意識・特権意識が問われれば問われるほど、
その著者はそれに反発し、世間の意識変革を阻止したいのです。
「肉を食って何が悪い??どう殺そうと勝手だろ!!人間が一番偉いんだ!!」
著者はその自説を押し通すために、巧みな表現で世間を惑わします。
著者は「人間の権利」を標榜し、「人道」を標榜し、「人間讃歌」を標榜します。
残酷な殺生が人間自身を自傷しているという根本義を知らず、
残酷な殺生が人間自身を苦しめているという根本義を知ろうともせず、
ただ表層だけの権利意識で「人間万歳!!!」を叫んでいるのです。
世間は一方で「共生」を謳い、片や一方で「人間絶対」を謳っているのです。
つまり「支離滅裂」なのです。
世間は、己の支離滅裂に全く気付いていないのです。
だから論議が一向に進展しないのです。
そこに「核心義」が不在だから、だから真の人道論議・真の共生論議に辿り着けないのです。
世間は巧みな虚言に惑わされ、「共生心」の萌芽は潰される怖れがあります。
そして人間絶対主義は、当分世論を支配していくでしょう。
その思想の意識は実に根深く人間の心に刻み込まれているのです。
その本は人間特有意識の見本として参考になると思います。
人間絶対主義の冷酷非情を描いた本として参考になるはずです。
私は常に「世間」相手に抗議していますので本の名は伏せますが、
「屠畜:とちく」で検索すれば題名が分かるはずです。
**** WOLFTEMPLE ****