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<2008年4月29日>

動物愛護家は世間の中の「マイノリティー」だ。

ネット上だと多いように感じても、実際には極めて少数派だ。

それでも今はWEBでのネットワークがあるから心強いが、

昔の愛護家は本当に孤独の中の孤軍奮闘だった。

捨て犬がいる。誰も保護しない。

虐待されている犬がいる。誰も助けない。

誰も何もしないから、誰かが立ち上がるしかない。

見て見ぬ振りなどできない。

自分に力が無くとも、見て見ぬ振りなどできない。

自分の生活が破滅すると分かっていても、見て見ぬ振りなどできない。

見て見ぬ振りができるくらいなら、最初から愛護などに踏み込まない。

見て見ぬ振りができないから、破滅を覚悟で愛護する。

「能力の範囲内でやればいいのに!!」と世間は批判する。

だが、もしそこに10頭の捨て犬が餓死寸前でいたなら、

自分の能力の範囲内の頭数だけを保護するべきだと言うのだろうか??

そんなことができるくらいなら、その人は最初から愛護などやっていないのだ。

世間はつまり、「保護する犬を選べ!この犬は残してこの犬は保健所へ!」と言っているのだ。

里親里親と言うけれど、里親探しは実に困難だ。

愛に満ちた里親を探すことがどれほど至難かを、愛護家は知っている。

そして、例え里親に出しても、その犬が幸せになる確率は半分以下だ。それが実態だ。

そうしてだんだんと保護犬が増え、愛護家の心身は極限まで追い詰められる。

だがそれでも、その悪戦苦闘の姿を知ってさえ、世間は愛護家を理解しない。

「なんで犬ごときをそんなに助けるの?? 狂ってる!!!」と批難するだけだ。

趣味で飼っている訳ではないのに。

商売で飼っている訳ではないのに。

本当はもっと世話してあげたいのに。

本当はもっと食べさせてあげたいのに。

その人も食べてはいないだろう・・・・

寝る時間さえないだろう・・・・

近隣からの迫害も絶えないだろう。袋叩きを受けているだろう。

それでも、誰も助けてはくれない場合がほとんどだった。昔は・・・・

世間は、崩壊したあとの後始末に登場する。

「犬がかわいそうだった!!」と誰もが口にする。

孤独な愛護家が己の命を削って世話している間は、冷酷に傍観していたくせに・・・・

だが、犬たちは知っている。

その愛護家の本心を。その人の無償の愛を。

だから犬たちは、苦しい中でも、真実の時を過ごしていた。

犬たちはその人のことを、永遠に忘れない。

その人は、犬たちにとっては、菩薩だったのだ。

犬たちは本当は、最後までその人と生きたかったのだ!!


繁殖者の多頭飼い崩壊は論外だ。議論以前に論外だ。

世話能力を超えた趣味飼育の多頭飼いも論外だ。議論以前に論外だ。

愛護とは名ばかりの無責任保護は論外だ。議論以前に論外だ。

だが世間は、真実の愛護心ゆえに己の全てを犠牲にして崩壊した愛護家をも、同列に批難する。

「能力を超えた多頭飼い」のひと言で、冷酷に断罪する。

本来なら決して同次元で語られるべきではない「孤軍奮闘愛護」を、同列に全否定する。

その愛護家のお陰で、犬たちがその時に九死に一生を得たことは事実なのに。

その人がその時に救わなければ、誰ひとりその犬を助けなかったのに。

その人がいたからこそ、その時、尊い命が永らえたのに。

だがその人は、ただ崩壊という不名誉だけを背負わされて終わったのだ。

そういう愛護家が、過去に何人もいたはずだ。

彼らの孤独と絶望と無念が、痛切にこの胸に伝わる。

彼らほど孤独でがんじがらめの生涯はないだろう。

自分一人なら、人生は何とでもなる。

身内が「人間」ならば、世間の理解も得られる。

だが動物を保護して家族にすれば、身動きひとつできなくなる。

そこに経済力が無ければ、ひたすら破滅に向かって突き進むだけなのだ。

破滅の足音を聴く毎日がどれほど辛いか!!!

私は、彼らに敬意を表する。

私は、無念の中で力尽きた名も無き愛護家たちに、レクイエムを捧げる。

彼らは、冷酷な計算高い世間に代わって、重い十字架を背負って生きたのだ。

**** WOLFTEMPLE ****