
山はまだ雪を被っている。 我々は中腹に棲んでいるが、その上はまだ雪が残っている。
山には無数の命たちが暮らしている。 みんな、誰もが、全身全霊で生きている。
どんなに飢えても、どんなに凍えても、どんなに孤独でも、渾身の力で耐えている。
山で、彼らを想う。 瞑目の中に、彼らの姿が浮かぶ。
なんでそんなに、なんでそんなに、頑張れるのか!!
一言の愚痴も無く、一言の嘆きも無く、一言の妬みも無く、一言の憎しみも無く、
ただただ生きる使命の声を信じて、ただただ命の炎を燃やそうと、己の全てを賭けている!!
瞑目の中で、いつも涙が溢れる。
彼らの心を想えば、彼らの懸命の毎日を想えば、感動せずにはいられない。
人は山を見て美しいと言う。 山の風景を堪能する。
だが、その山の美しさを支えているのは山の命たちだ。
山のみんなの、それぞれの渾身の生涯が、山を支えているのだ。
それぞれの命のそれぞれの献身が、山の偉大な調和を生み出しているのだ。
誰が欠けても、調和は訪れない。 誰が欠けても、美しさは訪れないのだ。
だから山には支配者はいない。 弱者も強者もいない。
山のみんなが、それを知っている。 山のみんなが、それを心得ているのだ。
山はいつも、「絶対平等の尊厳」で成り立っている。
絶対平等の命の尊厳がなければ、山は成立しないのだ。
それが大自然の真実だ。 それが大自然の真骨頂だ!!
人間はその大自然から莫大な恩恵を受け続けてきた。
その恩恵がなければ人間は、一刻たりとも生きることはできなかった。
だが人間は大自然への恩義を知らない。 恩知らずの略奪者だ。
そして人間は、大自然の調和に献身する動物たちへの恩義を知らない。
恩を知らぬどころか、徹底的に見下し、徹底的に支配する。
人間はついに、「尊厳の平等」を理解できなかったのだ。
人間はついに、偉大な調和の根本を無視し続けたのだ。
世間はどうしても、「人間優越意識」を捨てられない。
世間はどうしても、「人間絶対主義」を捨てられない。
これは実に根深い、人間特有の強烈な傾向性だ。 もはや本能と言ってもいい。
世間ではそれが常識感覚として「公認」されているのだ。
誰も異議を唱えないし、誰も疑問に思わない。
逆に、異議を唱えれば「異端視」され、批難の集中砲火を浴びることになる。
世間は口先だけの美言で「共生」を叫ぶが、それはまさに虚言妄言だ。
言ってることと本心が真逆なのに、世間は平気で共生を叫ぶのだ。
心の中は傲慢な非情に満ちているのに、平然と愛を語るのだ。
大人だけではない。 子供たちも同様だ。
世間は正義派を気取るために、子供心を「純真の象徴」として鎮座させているが、
子供は「世間心」からダイレクトに啓蒙されているから、刻々とダイレクトに影響を受けているから、
子供心もまた、大人と同様の心模様を描いているのだ。 大人の想像以上に!!
子供同士の「いじめ」も、大人の想像するような無邪気な次元で無いことなど、
そんなことは即座に感知できるはずなのに、大人は見て見ぬ振りをしてきただけなのだ。
子供を純真と見ることが正義だと思い込もうとして、子供心の深奥から目をそらしてきたのだ。
子供たちは、大人の想像以上に、理解力を持っている。
平易な言葉で本物の真剣心で話せば、充分に理解できる。
だが大人はそれを怠ってきた。
怠ってきたと言うよりも、語る言葉を持っていなかったのだ。
語る言葉を持っていないから、厳然と諭すことができない。
たとえ子供相手であろうとも、厳然と語らなければならなかったのに。
子供に迎合して、「おべっか」を使って、毒にも薬にもならない話でお茶を濁しても、
そんな話は微塵も子供の心に届かない。 子供の記憶に残らない。
子供は本当は「感動」を待っているのに、ついに大人はそれに気付かなかった。
子供が成長する貴重なチャンスを、大人は見事に潰してきたのだ!!
「現代の子供は・・」と嘆く前に、大人は自らの心の実像を覗いてみるべきだ。
大人の持つ心の気配を、子供は読み取る。 そして影響を受け続ける。
大人の人間の、人間特有の傲慢を、子供はダイレクトに受け継いでいくのだ!!
大人たちも子供たちも、世間の人々は皆、とことん「人間」だ。
とことん「人間は特別で、人間が一番偉い!!」と確信している。 揺るぎなく!!
だから「動物の尊厳」を訴えることがいかに至難かが容易に分かる。
いかに愛護家が悪戦苦闘しても、その真意は世間に伝わり難いのだ。
世の中を動かしているフィクサーは世間であり世論だ。
たとえば行政も、結局は世論に支配されているのだ。
政治は常に世論の顔色を窺っている。
世論から本気の反発を受ければ、現代の政治は即座に失脚だ。
だから政治の発言は常に世論からの反映だ。
人々は、あたかも政界独断の発言と錯覚しているが、
それは実は「世間に隠された多数派意見」が見事に反映されているのだ。
その見解に反感を覚える人は、つまり「少数派」だったに過ぎず、
それが「多数派」だったなら、それが政界の見解となっていたのだ。
そうなれば、その人は満足していたはずだ。
だがそうなれば、異なる意見の人は満足しないで反発するのだ。
強大な世論を無視すれば、現代の政治は一発で沈む。
だから政界は世間への「顔色窺い」に必死だ。
世間の御機嫌を損ねれば、総理でさえたちまち失脚するのだ。
だから政府見解に反発するなら、本当は「世間に隠された多数派意見」と闘うべきなのだ。
世間を跋扈する多数派意見と闘わずに政府だけを叫弾しても、根本の闘いにはならないのだ。
つまり本当の直接の相手は、最強の相手は、「世間に隠された多数派意見」なのだ!!
これほどに「動物虐待・飼育放棄」が減らないのも、
これほどに動物の尊厳が無視されるのも、つまりはそれが世間の本意であるからだ。
もし世間の本意が「尊厳平等主義」であったなら、とっくに行政も愛護の方向に進んでいたのだ。
愛護家の人は、その強大な世論を知るべきだ。
想像以上に根深く頑迷な「人間至上主義」の実像を知るべきだ。
子供たちでさえ、「人間は動物とは違う!! 人間と動物を一緒にするな!!」と叫ぶのだ。
純真と信じた子供たちでさえ、「人間が一番偉い!!」と妄信しているのだ。
だから動物愛護は、果てしなく茨の道だ。
「命の尊厳の平等観」になど、世間はまだまだ無関心なのだ!!
**** WOLFTEMPLE ****