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<2008年4月21日> ※「01」から続く。

ところで実は、太郎も怪我を負っていた。

太郎の方が大きいので、ライは後頭部の首を咬まれたが、

太郎は胸の下の前肢の付け根を咬まれていた。

彼があまりにも平然としていたので、私は気が付かなかったのだ。

帰宅してから太郎を見ると、わずかに歩行がおかしい。

それで急いで診てみると、前肢の付け根に牙の穴が空いている。

その傷は、深かった。 だが太郎は無言を貫いて耐えていたのだ。

ライの一撃も、強烈だったのだ!!

北極エスキモー犬もまた、究極の闘士なのだ。

彼らは、斧でも割れないほどに堅く凍った凍結肉を咬み砕いて食べる。

彼らの咬力もまた、尋常なレベルではないのだ。

私は太郎の傷を水で洗浄し、絞ったタオルを患部に当てながら強く押さえた。

意識を集中し、しばらく、その状態を保つ。

これは私のある種の「祈り」だ。 いつもこうして「手当て」するのだ。

太郎の歩行は数日間不自然だったが、やがて完全に回復した。

彼は本来、怪我などものともしないし、不自然な姿など絶対に見せない。

だからライの一撃の凄さが分かる。

彼らの一瞬の闘いの中には、莫大な力が攻防していたのだ!!


私は青年時代に武道に励んだが、闘争も相当に経験したが、

だが、野性たちの前では全く無力に等しい。 手も足も出ない。

それをありありと実感してきた。

現実に彼らを目の前に対峙してみれば、その身で実感できるのだ。

彼らの「覚悟」は、それほどに異次元なのだ。

そして彼らの身体に潜む驚異の底力は、

24時間365日に命懸けに生きた「野性の歴史」の賜物だ。

その渾身の歴史は、彼らの「血」に刻み込まれているのだ。

以前、ある武道家から、日本狼の逸話を聞いた。

それは一流の剣士と狼との、山中での対決記録だった。

日本狼が絶滅する以前の昔話だが、実話として記録されたものだという。

ところで日本狼は「小型」と誤解されているが、確かに巨体の大陸狼よりも小型のはずだが、

実際には充分に「ハスキー」程度の大きさを持ち、なおかつ、厳然と狼の頑強さを誇っていた。

その牙もアゴも骨格も、犬とは比較にならないほどに強靭だっただろう。

そうでなければ、到底、鹿や猪など捕食できないからだ。

人は「鹿」と侮るが、野生の鹿がもし本気を出せば、

屈強な男たちが近寄ることさえ出来ないほどの力を発揮するのだ。

成獣の猪ともなれば世界中のいかなる人間も、その突進で木っ端微塵にされるのだ。

草食獣・雑食獣といえどもそのくらいの実力が無ければ、

一方的に猛獣から捕食され続け、すぐに絶滅してしまうのだ。

だから野生界の誰もが、実は大変な実力者なのだ。

野生の熊が我が家を訪問した時にも、私は強烈に実感した。

「熊の気配」に、人間界には決して存在しない異世界を直感した。

「次元が違う!!」と思い知らされた。

熊がいきなり訪れて間近で対面した時、改めて野生界の迫力を思い知ったのだ。

その野生界で、日本狼は狩猟獣の立場を守り通して来れたのだ。

その野生界で、猛獣の立場を守り通して来れたのだ。

それを考えただけでも、日本狼の実力のレベルが容易に想像できるのだ。

しかし研究家たちは、見当外れな憶測に終始する。 残念だ!!

小型獣の捕食は「キツネ」などが専門とするから、狼の捕食の主体は大型獣となる。

野生界には、それぞれの専門分野があり、極力バッティングを避けているのだ。

そうでなければ、その種の「種としての意義」が不明となる。

それぞれに重大な意義を背負っているからこそ、それぞれに存在しているのだ。

日本狼は大物猟のエキスパートとして進化を果たし、偉大な調和に貢献してきた。

だが人間が、彼らを絶滅させた。 そしてその過ちに気付き始めたのが100年後の今だ。

人間は自らの過ちに気付くのに「100年」かかったのだ。しかもまだ「ぼんやりと」だ!!

「剣士」は山中で、一頭の日本狼に出会った。

だが、剣を抜くことさえ出来なかった。

それが、すべてを物語っている。

なぜ剣を抜けなかったのか、私には実感できる。

威圧されただけでは無い。

狼の凄まじい闘気に圧倒されて凍り付いただけでは無い。

「抜く暇」さえも許されなかったのだ。

その手をわずか1cm動かした瞬間に、狼は跳躍を終えて一撃で剣士を倒すのだ。

本当の話だ。誇張ではないのだ。

剣士は瞬間にそれを察知したから、ついに抜刀できなかったのだ。

剣士はただ立ち尽くし、そして狼は去って行ったという。

野性は、人々の想像を、はるかに超えているのだ!!

戦時中の満州で、兵士たちが狼に囲まれた時の逸話もある。 これも実話だ。

満州狼は兵士たちの「頭上」を飛び交い、兵士たちは呆然として立ち尽くしたという。

狼はおそらく何らかの理由で兵士たちに「警告」を与えたのだろう。

明らかに、攻撃ではなく警告だ。

だがその警告のレベルでも、兵士の度肝を抜いたのだ!!


※この25年間で、私は何度か咬まれている。

「私は絶対に咬まれません!」と豪語する人も多いが、

緊急事態の際に、我を忘れて「対処」しようとすれば、咬まれることもあり得るのだ。

だが、犬たちは決して本気でなど咬まない。 必ず、加減してくれる。

そして彼らは心から恐縮して、何度も謝ってくれる。

例えば闘いを分ける時、彼らが興奮の最中で誤って私を咬めば、彼らは心の底から詫びてくれる。

だから決して彼らを責めたりはしない。

彼らの興奮を鎮めるために、我に返らせるために、裂帛の声で制することはあるが、それで終りだ。

出血ぐらいは起こるが、血が出たくらいでは咬まれた内に入らない。

私はいつも水で洗浄するだけだが、それで充分なのだ。

23年前、私はライに二度、咬まれた。

当時は私も未だ血気盛んだったので、ライを烈しく怒ったことが度々あった。

己の身勝手な判断で、彼を打ち据えたことが度々あったのだ。

私は野性のスピリットを、理解しているつもりが理解できていなかったのだ。

もし本当に理解できていれば、決して腹立てることなど無かったはずなのだ。

いつも二三日眠れぬほどに後悔した。 心の中でライに詫びた。

だが、その時の己の行為は消えない。その時の行為は決して許されないのだ。

或る日、私は烈しくライを打ち、さらにもう一度打った。

その瞬間、彼の目が緑色に燃え上がり、私は腕を咬まれた。

バットで殴られたような衝撃が走り、腕が動かなくなった。

痛いとかではなく、瞬間に動かなくなったのだ。

私はその衝撃で我に返った。 その衝撃で目が覚めた。

ライは、ジッと我慢していたのだ。 私の怒りに対して、ひたすら辛抱していたのだ。

それなのに、私が彼の心を追い詰めたのだ。 理不尽に、執拗に、追い詰めたのだ。

いくら彼が異様に頑固であろうとも、異様に剛胆であろうとも、

たとえそれを不都合に感じる時があったとしても、彼を責めるなど筋違いだったのだ。

私はその時、痛烈に自分の未熟に気付いた。

私が悪かったのだ。 一方的に私が悪かったのだ!!

その後の或る日に、もう一度咬まれた。 まだ私に未熟が残っていたのだ。

これは容易な道のりではないことを知った。

野性との絆が、尋常な道のりではないことを知った。

私は改めて決意した。 ライの真の父になることを。

はるかなる真実の絆を目指して、この胸に誓ったのだ。

こうして、私は野性対話道の扉を開けた。

ライと共に、果てしなく続く対話道に踏み込んだのだ。

ライは、本気でなど咬まなかった。

彼は十二分に手加減してくれたのだ。

決して攻撃ではなく、あくまでも「抗議」だったのだ。

彼がもし本気で咬めば、私の腕は瞬時に破壊されていたのだ。

それが攻撃ならば、私は彼に殺されていたのだ。

だが腕には牙の穴が空いただけだ。 それだけで済んだのだ!!

世間では「咬まれた!」と騒ぐ人が多いが、冷静に判断して欲しい。

「咬んだ!」の一言で責めずに、「状況」を判断して欲しいのだ。

犬たち同士は「牙」でさまざまな意志の疎通をはかる。

そこには常に「微妙なニュアンス」が隠されているのだ。

加減をわきまえた抗議の時もあるし、軽度の警告の時もある。

やさしく咬んで愛情を表現することもあるし、遊びの咬み合いもあるのだ。

「咬む」といっても、牙の力の入れ具合は常に微妙に違うのだ。

太郎がまだ乳歯の子供の頃、私の腕はいつも何十本と注射を打たれたような状態だった。

乳歯だからすぐに突き刺さるし、子狼の遊びは、魔神のように烈しいのだ。

だがそれは、あくまでも遊びの一場面なのだ。 時期を過ぎれば、必ず落ち着くのだ。

私のような形で子狼の遊びに付き合う人間はいないかも知れないが・・・・

彼らが咬む時、そこには必ず理由が隠されている。

だから彼らの言い分も聞いてあげて欲しいのだ。

聞く耳を持ち、洞察して欲しいのだ!!


※写真は、20年前の写真です。

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