<2008年4月19日>
今日は「野性の闘い」の話をする。
「野性」とは「大自然のスピリット」のことだ。
或いは「そのスピリットで生きる者」のことだ。
<因みに「野生」とは、「大自然で生きる状態」を指す>
動物たちと生きるには、「闘いの実像」も知らねばならない。
私は25年間に亘り、非常に多くの犬たちと暮らしてきた。
その中には「野性そのもの」の犬たちもいた。
そしてまた「オオカミ」も家族だった。
長い年月の中で、多頭数家族の生活の中で、時には不測のアクシデントが発生する。
細心の注意を払っていても、時には「闘い」が起こるのだ。
犬の闘いは、人々の想像以上に烈しい。
海外では「ドッグファイト」という言葉が、「激烈な闘い」の代名詞となっているほどなのだ。
ましてや闘志溢れる強力な大型犬の闘いは壮絶だ。
格闘技など比較にならないほどに凄まじい。
だが、私はそれを止めなければならない。
一刻も早く、何としてでも止めなければならないのだ。
叩いたり引っ張ったり蹴ったりなどは「愚の骨頂」だ。
そんな行為はなんの役にも立たないし、犬のダメージを広げるだけだ。
いかなる闘争の時にも、絶対に許されない愚行なのだ。
<「闘いの止め方」については長くなるので別の機会に語る>
書庫の「闘犬の実像」にも書いたが、闘いの最中の犬体は、途方もない負荷に耐えている。
人間ならば数秒と持たないほどの甚大な負荷だ。
私はその負荷を実感できるから、だから無我夢中で止めるのだ。
我を忘れて無我夢中になった時、日常では現われない未知の気迫と力が出現する。
実際にはその力で対処しても止めるのは至難だが、
犬たちが私の「本気」を感知して、それで力を緩めてくれるから、だから止めることができるのだ。
犬たちは興奮の極みにありながら、私を立ててくれるのだ。
我が家の彼らはの闘いは確かに激烈だが、
だが、そこにはやはり、「家族」の意識が潜んでいる。
本物の真剣勝負とは、わずかに紙一重違うのだ。
しかし、そうは言っても「闘いのダメージ」は相当に大きい。
強大な咬力の場合、外傷よりも内部深くの損傷が大きいのだ。
「北極エスキモー犬」の力は凄まじい。
彼らはパワーだけでなくフラッシュのスピードを持つから、
つまり「ケタ外れの瞬発力」を発揮するのだ。
特に「雷(ライ)」は比類なき力の持ち主だった。
20年以上の昔、我々がまだ人里近くに住んでいた頃、
散歩中にライは何度か他家の雄犬と闘争になった。
彼が若かったから、相手もその気になったのだ。
<ライが壮年になってからは、「見つめただけで」相手が引いたのだ>
もちろん、不可抗力の不測の事態だった。
時に闘犬種と、時に獣猟犬種と、闘いになった。
いずれも剛胆さで定評のある強力な犬種たちだ。
いつも私が迅速に止めたが、ライの闘力は壮絶だった。
無駄な動きなど微塵も無い。瞬間に圧倒してしまうのだ。
外見はシベリアンやマラミュートに似ていると思われることもあるが、
北極エスキモー犬は、家庭犬とは別方向の進化を遂げた。
北極の野性のライは、犬では無かったのだ。「猛獣」の次元だったのだ。
そのライが、ある日、狼の「太郎」と闘った。
太郎が2歳半を超え、成獣の貫禄を見せ始めた頃、
私は「そろそろ、ライとの間柄は危ない」ことを感知していた。
野性の掟、宿命の決闘が起こることを予感していたのだ。
野性の「群れ」に於ける、「避けては通れない宿命」なのだ。
だが私には、闘いの前から結末が分かっていた。
ライの闘力がいかに強力でも、太郎には通用しないことを。
健全に成育した雄の大型狼の太郎の力は「異次元」だったのだ。
ライも相当に大型だったが、太郎はさらに極大型だった。
<ライは雄のハスキーの1.5倍以上、太郎は2倍以上の体格だ>
その体格の差は、致命的だった。
もし同様の種類の闘力を持つ場合には、体格の差は致命的となるのだ。
そして、太郎の牙と咬力の威力は、言語を絶した壮絶さだ。
充分な体調の雄狼の力は、想像をはるかに超えた領域なのだ。
だから私は真剣に注意を払っていた。
少し以前から「二頭引き」での散歩も止めていた。
だがその日は時間に追われていた。
思案したが、どうしても二頭引きで散歩するしかなかった。
散歩の途中、案の定、突然に闘いが起こった。
なんの前ぶれも無く、無言のままに突然始まった。
そして、瞬時に勝負がついた。
太郎の巨大な牙が、ライの太く頑丈な首をガッシリと押さえた。
もはやそれで、勝負は終わったのだ。
それほどに、太郎の咬力は異次元なのだ。
それが「犬」からの攻撃ならば、ライはものともせずに耐えられる。
相手がどんな大型犬であろうとも、ライは耐えられる。
だが、大型狼の太郎の力は、あまりにも圧倒的だった。
咬み込まれた瞬間に、ライは微塵も動けなくなったのだ。
「犬の闘い」を想像する人は、この光景を信じることが出来ないだろう。
「咬み合うことが闘い」だと思い込んでいる人も、信じられないだろう。
だが本物の雄狼の闘いとは、「ひと咬み」で終わるのだ。
よほどの大型獣相手でなければ、「咬んでそのまま終わる」のだ。
太郎は子供の頃、どんな犬でも壊せない頑丈な寝小屋を瞬く間に破壊した。
さらに丈夫に作り変えたが、またもや木っ端微塵に粉砕した。
その壊れた小屋を見た時、彼の牙とアゴの威力を思い知らされた。
その頃は子供だったが、今は成獣に近い。
彼の力は格段に成長し、もはや想像を超えている。
ライは、無言だった。
だが、彼は断末魔のような苦悶に耐えていた。
私は背筋の凍るような衝撃を受けた。
太郎の力を知っているつもりだったのに、言葉を失った。
私は、腹の底からの、裂帛の気合で太郎を制止した。
渾身の声で、太郎の心に呼びかけた。
太郎が、わずかに口を緩めた。
その瞬間に、私は全身を使って彼らを引き離した。
太郎は、私の指示に従ってくれたのだ。
そうでなければ、離すことなど金輪際不可能だったのだ。
この戦慄の闘いの中で、私は狼の別の真髄を知った。
太郎は、加減していたのだ!!
彼は、決して本気では咬んでいなかったのだ。
もし本気で攻撃していたら、ライはそのまま殺されていたのだ。
太郎は「兄」と慕ったライを、赦していたのだ。
宿命の決闘の時でさえ、敬慕の気持ちで赦していたのだ。
太郎は闘いの仁義を、闘いの美学を守り通したのだ。
人間はエキサイトすると見境が無くなり、「加減」を忘れる。
加減を忘れ、延々と、容赦なく攻撃を続ける。
だが猛獣の太郎が、決闘の時でさえ、手加減を忘れなかったのだ。
猛獣よりも人間の方が、はるかに凶暴なのだ!!
そしてライも、太郎の心境を知っていた。
その苦悶の中でさえ、弟が加減してくれたことを知っていた。
しかしそれでも、ライのダメージは甚大だった。
彼は五日間、動けないままだった。
その首を、ピクリとも動かすことが出来なかったのだ。
あの頑丈なライが、あの不屈のライが、動けなかったのだ。
外傷は、ただ「牙の穴」があいていただけだ。
だがその力は、内部深くまで貫いていたのだ。
彼らは闘いの際には、全身の筋肉を「鋼」のように堅く引き締めている。
そうしていなければ、アッという間に引き裂かれてしまうからだ。
だがその防御の壁を、太郎の牙はいとも簡単に突破したのだ。
ライは自らに安静を保っていた。
ひたすらに、じっと横になりながら、
彼は自分の力で自分の身体を回復させていたのだ。
三日目頃から、水を飲み始めた。
五日目頃から、食欲が出始めた。
その食欲を合図に、急ピッチで快方に向かった。
水と食事は、肉体を修復する材料だ。
修復工事は、休むことなく全力で続けられた。
ライはその後に歩き始め、自らにリハビリした。
彼はすべて自分の判断で自分の身体を回復させている。
寝ているべきだと判断し、
もう起き上がっても良い頃だと判断し、
そして歩くべきだと判断したのだ。
因みに、ライを獣医には預けなかった。
私以外にライを扱える人間はいないからだ。
彼は吠えもしなければ暴れもしない。
いつも沈黙を保ち、沈着している。
だが、誰も彼に命令することはできない。
彼は、唯一私だけの指示を聞くのだ。
そして命懸けでその意志を貫く覚悟を持っているのだ。
世間の愛犬家は、「躾けられていない!」と批判するだろう。
だが、本物の野性の「一代一主」は徹底しているのだ。
その生涯で、主人はただ一人なのだ!!
この「猛き純情」を理解できる人は、滅多にいないだろう。
人々が「犬」に求める条件は、「人間への絶対服従」なのだ。
しかし私は、そんな条件は微塵も求めなかった。
私の辞書には、「服従」という文字は無いのだ。
「服従」など、絆の果ての単なる結果にしか過ぎないのだ。
ライの肉体は快復した。
一方、彼の精神は、相変わらず豪胆のままだった。
凄まじい衝撃を受けたはずなのに、途方もない気力で踏ん張ったのだ。
「ボス」としての誇りは確かに傷ついたはずだ。
だが、そんな素振りは微塵も見せずに、平然を貫いていたのだ。
これが、ライの真骨頂だった。
普通なら落ち込んで弱気が顔を覗かせるだろう。
そしてその弱気は、必ず身体上の表現となって現われる。
鼻先から尾先まで、全てに渡り必ず現われるのだ。
その精神の情動は、隠しようが無く姿に現われるのだ。
だがライは、一切その片燐すらも見せなかったのだ!!
だから太郎も、以前のままにライを尊敬した。
だからこそライは、狼の太郎から尊敬されたのだ!!
※「野性闘義02」に続きます。
**** WOLFTEMPLE ****
今日は「野性の闘い」の話をする。
「野性」とは「大自然のスピリット」のことだ。
或いは「そのスピリットで生きる者」のことだ。
<因みに「野生」とは、「大自然で生きる状態」を指す>
動物たちと生きるには、「闘いの実像」も知らねばならない。
私は25年間に亘り、非常に多くの犬たちと暮らしてきた。
その中には「野性そのもの」の犬たちもいた。
そしてまた「オオカミ」も家族だった。
長い年月の中で、多頭数家族の生活の中で、時には不測のアクシデントが発生する。
細心の注意を払っていても、時には「闘い」が起こるのだ。
犬の闘いは、人々の想像以上に烈しい。
海外では「ドッグファイト」という言葉が、「激烈な闘い」の代名詞となっているほどなのだ。
ましてや闘志溢れる強力な大型犬の闘いは壮絶だ。
格闘技など比較にならないほどに凄まじい。
だが、私はそれを止めなければならない。
一刻も早く、何としてでも止めなければならないのだ。
叩いたり引っ張ったり蹴ったりなどは「愚の骨頂」だ。
そんな行為はなんの役にも立たないし、犬のダメージを広げるだけだ。
いかなる闘争の時にも、絶対に許されない愚行なのだ。
<「闘いの止め方」については長くなるので別の機会に語る>
書庫の「闘犬の実像」にも書いたが、闘いの最中の犬体は、途方もない負荷に耐えている。
人間ならば数秒と持たないほどの甚大な負荷だ。
私はその負荷を実感できるから、だから無我夢中で止めるのだ。
我を忘れて無我夢中になった時、日常では現われない未知の気迫と力が出現する。
実際にはその力で対処しても止めるのは至難だが、
犬たちが私の「本気」を感知して、それで力を緩めてくれるから、だから止めることができるのだ。
犬たちは興奮の極みにありながら、私を立ててくれるのだ。
我が家の彼らはの闘いは確かに激烈だが、
だが、そこにはやはり、「家族」の意識が潜んでいる。
本物の真剣勝負とは、わずかに紙一重違うのだ。
しかし、そうは言っても「闘いのダメージ」は相当に大きい。
強大な咬力の場合、外傷よりも内部深くの損傷が大きいのだ。
「北極エスキモー犬」の力は凄まじい。
彼らはパワーだけでなくフラッシュのスピードを持つから、
つまり「ケタ外れの瞬発力」を発揮するのだ。
特に「雷(ライ)」は比類なき力の持ち主だった。
20年以上の昔、我々がまだ人里近くに住んでいた頃、
散歩中にライは何度か他家の雄犬と闘争になった。
彼が若かったから、相手もその気になったのだ。
<ライが壮年になってからは、「見つめただけで」相手が引いたのだ>
もちろん、不可抗力の不測の事態だった。
時に闘犬種と、時に獣猟犬種と、闘いになった。
いずれも剛胆さで定評のある強力な犬種たちだ。
いつも私が迅速に止めたが、ライの闘力は壮絶だった。
無駄な動きなど微塵も無い。瞬間に圧倒してしまうのだ。
外見はシベリアンやマラミュートに似ていると思われることもあるが、
北極エスキモー犬は、家庭犬とは別方向の進化を遂げた。
北極の野性のライは、犬では無かったのだ。「猛獣」の次元だったのだ。
そのライが、ある日、狼の「太郎」と闘った。
太郎が2歳半を超え、成獣の貫禄を見せ始めた頃、
私は「そろそろ、ライとの間柄は危ない」ことを感知していた。
野性の掟、宿命の決闘が起こることを予感していたのだ。
野性の「群れ」に於ける、「避けては通れない宿命」なのだ。
だが私には、闘いの前から結末が分かっていた。
ライの闘力がいかに強力でも、太郎には通用しないことを。
健全に成育した雄の大型狼の太郎の力は「異次元」だったのだ。
ライも相当に大型だったが、太郎はさらに極大型だった。
<ライは雄のハスキーの1.5倍以上、太郎は2倍以上の体格だ>
その体格の差は、致命的だった。
もし同様の種類の闘力を持つ場合には、体格の差は致命的となるのだ。
そして、太郎の牙と咬力の威力は、言語を絶した壮絶さだ。
充分な体調の雄狼の力は、想像をはるかに超えた領域なのだ。
だから私は真剣に注意を払っていた。
少し以前から「二頭引き」での散歩も止めていた。
だがその日は時間に追われていた。
思案したが、どうしても二頭引きで散歩するしかなかった。
散歩の途中、案の定、突然に闘いが起こった。
なんの前ぶれも無く、無言のままに突然始まった。
そして、瞬時に勝負がついた。
太郎の巨大な牙が、ライの太く頑丈な首をガッシリと押さえた。
もはやそれで、勝負は終わったのだ。
それほどに、太郎の咬力は異次元なのだ。
それが「犬」からの攻撃ならば、ライはものともせずに耐えられる。
相手がどんな大型犬であろうとも、ライは耐えられる。
だが、大型狼の太郎の力は、あまりにも圧倒的だった。
咬み込まれた瞬間に、ライは微塵も動けなくなったのだ。
「犬の闘い」を想像する人は、この光景を信じることが出来ないだろう。
「咬み合うことが闘い」だと思い込んでいる人も、信じられないだろう。
だが本物の雄狼の闘いとは、「ひと咬み」で終わるのだ。
よほどの大型獣相手でなければ、「咬んでそのまま終わる」のだ。
太郎は子供の頃、どんな犬でも壊せない頑丈な寝小屋を瞬く間に破壊した。
さらに丈夫に作り変えたが、またもや木っ端微塵に粉砕した。
その壊れた小屋を見た時、彼の牙とアゴの威力を思い知らされた。
その頃は子供だったが、今は成獣に近い。
彼の力は格段に成長し、もはや想像を超えている。
ライは、無言だった。
だが、彼は断末魔のような苦悶に耐えていた。
私は背筋の凍るような衝撃を受けた。
太郎の力を知っているつもりだったのに、言葉を失った。
私は、腹の底からの、裂帛の気合で太郎を制止した。
渾身の声で、太郎の心に呼びかけた。
太郎が、わずかに口を緩めた。
その瞬間に、私は全身を使って彼らを引き離した。
太郎は、私の指示に従ってくれたのだ。
そうでなければ、離すことなど金輪際不可能だったのだ。
この戦慄の闘いの中で、私は狼の別の真髄を知った。
太郎は、加減していたのだ!!
彼は、決して本気では咬んでいなかったのだ。
もし本気で攻撃していたら、ライはそのまま殺されていたのだ。
太郎は「兄」と慕ったライを、赦していたのだ。
宿命の決闘の時でさえ、敬慕の気持ちで赦していたのだ。
太郎は闘いの仁義を、闘いの美学を守り通したのだ。
人間はエキサイトすると見境が無くなり、「加減」を忘れる。
加減を忘れ、延々と、容赦なく攻撃を続ける。
だが猛獣の太郎が、決闘の時でさえ、手加減を忘れなかったのだ。
猛獣よりも人間の方が、はるかに凶暴なのだ!!
そしてライも、太郎の心境を知っていた。
その苦悶の中でさえ、弟が加減してくれたことを知っていた。
しかしそれでも、ライのダメージは甚大だった。
彼は五日間、動けないままだった。
その首を、ピクリとも動かすことが出来なかったのだ。
あの頑丈なライが、あの不屈のライが、動けなかったのだ。
外傷は、ただ「牙の穴」があいていただけだ。
だがその力は、内部深くまで貫いていたのだ。
彼らは闘いの際には、全身の筋肉を「鋼」のように堅く引き締めている。
そうしていなければ、アッという間に引き裂かれてしまうからだ。
だがその防御の壁を、太郎の牙はいとも簡単に突破したのだ。
ライは自らに安静を保っていた。
ひたすらに、じっと横になりながら、
彼は自分の力で自分の身体を回復させていたのだ。
三日目頃から、水を飲み始めた。
五日目頃から、食欲が出始めた。
その食欲を合図に、急ピッチで快方に向かった。
水と食事は、肉体を修復する材料だ。
修復工事は、休むことなく全力で続けられた。
ライはその後に歩き始め、自らにリハビリした。
彼はすべて自分の判断で自分の身体を回復させている。
寝ているべきだと判断し、
もう起き上がっても良い頃だと判断し、
そして歩くべきだと判断したのだ。
因みに、ライを獣医には預けなかった。
私以外にライを扱える人間はいないからだ。
彼は吠えもしなければ暴れもしない。
いつも沈黙を保ち、沈着している。
だが、誰も彼に命令することはできない。
彼は、唯一私だけの指示を聞くのだ。
そして命懸けでその意志を貫く覚悟を持っているのだ。
世間の愛犬家は、「躾けられていない!」と批判するだろう。
だが、本物の野性の「一代一主」は徹底しているのだ。
その生涯で、主人はただ一人なのだ!!
この「猛き純情」を理解できる人は、滅多にいないだろう。
人々が「犬」に求める条件は、「人間への絶対服従」なのだ。
しかし私は、そんな条件は微塵も求めなかった。
私の辞書には、「服従」という文字は無いのだ。
「服従」など、絆の果ての単なる結果にしか過ぎないのだ。
ライの肉体は快復した。
一方、彼の精神は、相変わらず豪胆のままだった。
凄まじい衝撃を受けたはずなのに、途方もない気力で踏ん張ったのだ。
「ボス」としての誇りは確かに傷ついたはずだ。
だが、そんな素振りは微塵も見せずに、平然を貫いていたのだ。
これが、ライの真骨頂だった。
普通なら落ち込んで弱気が顔を覗かせるだろう。
そしてその弱気は、必ず身体上の表現となって現われる。
鼻先から尾先まで、全てに渡り必ず現われるのだ。
その精神の情動は、隠しようが無く姿に現われるのだ。
だがライは、一切その片燐すらも見せなかったのだ!!
だから太郎も、以前のままにライを尊敬した。
だからこそライは、狼の太郎から尊敬されたのだ!!
※「野性闘義02」に続きます。
**** WOLFTEMPLE ****