<2008年4月19日>

「動物との対話」には、「尊・義・礼」が求められる。

「尊」の意味は分かりやすい。「礼」も分かりやすい。

だが「義」の意味は、分かりずらいかも知れない。

義には二つの字義がある。

一つは「核心・エッセンス・要諦」という意味だ。

もう一つは「湧きあがる使命感」という感じの意味だ。

適確な説明が浮かばないが、雰囲気としてはこのような意味だ。

内村鑑三は「義のキリスト教」という言葉を使った。

「義に生きる」という時には、この意味だ。

新渡戸稲造のキリスト教観も、義が根幹だろう。

この「義」を短く顕著に表現した歌がある。

幕末の「吉田松陰」の歌だ。

これほど義を、そして武士道を、簡潔に表現した名句に出会ったことが無い。

※私は松蔭の思想には関心が無いが、ただこの歌だけは心に刻まれている。


◆◆ かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂 ◆◆


「大和魂」という言葉に囚われると、純粋な解釈と離れるので要注意だ。

ここでの大和魂とは「矜持」の意味なので、余計な詮索など無用なのだ。

この歌は、ただ純粋に「義」を味わうべきなのだ。

※たとえば私の場合には「狼山魂」とか「華厳魂」に置き換えてもいいのだ。


こうすればこうなると、こうすれば自分は不利な立場に陥ってしまうと、

それを分かっているけれど、そんなことは百も承知で分かっているけれど、

だが、どうしても、それをやらなければならない。

だが、なんとしてでも、それを完遂しなければならない。

つまり「一切の損得勘定を超越して、不利を承知で己の信念を貫く」という美学だ。

「やむにやまれぬ」という、心の底から湧きあがる純粋心境の歌なのだ。


動物との真の対話に於いては、この「義の心」が不可欠だ。

決して「傍観」の境地では対話できないのだ。

相手を認め、相手を尊び、相手の境涯を感応し、我が事として相手を想うのだ。

そうでなければ、動物たちの真意を知ることはできない。

我を忘れた義心の境地でなければ、相手の本当の心境など分からないのだ。

どれほど長く動物関係の仕事をやっていても、動物の心が分からない人がいる。

そういう人は「傍観」でしか観ていないから、結局は「他人事」でしか観ていないから、

だから最後まで「対話」が不可能のままで終わるのだ。

だが逆に、義心を持ったなら、動物関係の仕事には就けなくなる。

もし対話が成されれば、到底、彼らの境遇に目を瞑っていることが出来なくなるからだ。

だから本当は義心を持った瞬間に、この世間で生活することが困難になる。

しかし困難の代償に、「真の対話」を知ることができる。

私は、莫大な代償を払ってきた。 その果ての「野性対話道」だ。


尊と義と礼は互いに相関し、尊義礼一如だ。

そして尊義礼は大自然の基調であり、野性たちは誰もがそれを知っている。

■書庫の「野性対話道」も御覧ください。

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