<2008年4月17日>
狼山舎の羅針盤は華厳であり野性対話道だ。
どちらも実体験として感得した世界だ。
心の底から実感した不動の確信だ。
人間界では延々と宗教理屈が語られるが、
核心から外れた方向に議論が展開する場合が殆どだ。
いつも核心を心の中心に据え置けば別方向に彷徨うことは無いはずだが・・・・
だから私は理屈の議論には興味が無い。
理屈で理解できる領域など、限られた小さな世界に過ぎないのだ。
そして理屈に呪縛されれば、果てしない迷路に彷徨うことになる。
強烈な実感が無ければ、延々と理屈の迷路を彷徨って終わるのだ。
華厳と野性対話道は常にオーバーラップする。
野性対話道は「野性たち」から学んだ莫大な教えを要約したものだ。
そして華厳は大自然のスピリットの本源であり、宇宙の深秘そのものだ。
華厳は野性対話道を証す根本義であり、そして最大の理解者なのだ。
だから野性界にとって華厳と対話道は常に一体であり不可分なのだ。
華厳は人間界の宗教には納まり切れない。
もっとはるかに壮大でダイナミックだ。
だから「人間には理解困難な経典」と呼ばれてきたのだ。
だが、野性界の命たちには理解できる。
理解できるというよりも、そのまま実感できるのだ。
何故なら、彼らは華厳世界に生きているからだ。
野性たちは、華厳摂理を本能で知っているのだ。
野性たちは、野性の感応で華厳を実感する。
彼らと生きる私自身も華厳を実感した。
そして私はその実感を元に記事を書いている。
私は書物からの引用を羅列した引用作文は書かない。
実感できた核心だけを、本心の言葉で綴っている。
だからこのブログ「狼の山の魂」は、野性界オリジナルだ。
1300年前に中国で華厳哲学を大成した賢首大師はイラン人だったようだ。
西域アジア民族の大師が、インドで発祥した華厳仏教を、中国の地で究明したのだ。
大師は偏狭な宗教には興味が無く、その思想は雄大なインターナショナル感覚だった。
大師は華厳の「無限世界」に魅かれ、そしてその世界を実感したのだと感じる。
大師は「一断一切断 一成一切成 一顕一切顕」という華厳行の言葉を残したが、
その言葉に、大師の「確信」が込められていると感じる。
人間には理解困難な華厳経を、その生涯を賭けて解説してくれた大師に感謝する。
言葉では絶対に表現できない世界を、それでも何とか表現しようと苦闘した大師に感謝する。
大師は直観で華厳を感じた。だがそれを言葉に現わせば極めて難解な解説になる。
その辺の事情を誤解する仏教者も多いが、大師の本意は「野性の華厳」だと、そう感じる。
歴史を彩る世界的版画家の「棟方志功」は、華厳行者だと呼べる。
「華厳の二字、ただそれだけで大きな何かを感じ続けてきました」と棟方師は語った。
棟方志功の気宇壮大な作品群は、華厳の感得から生まれたのだと感じる。
天才版画家の感じた華厳は、「野性の華厳」だったに違いない。
野性の華厳は、一瞬一瞬を突き抜けていく!!!
**** WOLFTEMPLE ****
狼山舎の羅針盤は華厳であり野性対話道だ。
どちらも実体験として感得した世界だ。
心の底から実感した不動の確信だ。
人間界では延々と宗教理屈が語られるが、
核心から外れた方向に議論が展開する場合が殆どだ。
いつも核心を心の中心に据え置けば別方向に彷徨うことは無いはずだが・・・・
だから私は理屈の議論には興味が無い。
理屈で理解できる領域など、限られた小さな世界に過ぎないのだ。
そして理屈に呪縛されれば、果てしない迷路に彷徨うことになる。
強烈な実感が無ければ、延々と理屈の迷路を彷徨って終わるのだ。
華厳と野性対話道は常にオーバーラップする。
野性対話道は「野性たち」から学んだ莫大な教えを要約したものだ。
そして華厳は大自然のスピリットの本源であり、宇宙の深秘そのものだ。
華厳は野性対話道を証す根本義であり、そして最大の理解者なのだ。
だから野性界にとって華厳と対話道は常に一体であり不可分なのだ。
華厳は人間界の宗教には納まり切れない。
もっとはるかに壮大でダイナミックだ。
だから「人間には理解困難な経典」と呼ばれてきたのだ。
だが、野性界の命たちには理解できる。
理解できるというよりも、そのまま実感できるのだ。
何故なら、彼らは華厳世界に生きているからだ。
野性たちは、華厳摂理を本能で知っているのだ。
野性たちは、野性の感応で華厳を実感する。
彼らと生きる私自身も華厳を実感した。
そして私はその実感を元に記事を書いている。
私は書物からの引用を羅列した引用作文は書かない。
実感できた核心だけを、本心の言葉で綴っている。
だからこのブログ「狼の山の魂」は、野性界オリジナルだ。
1300年前に中国で華厳哲学を大成した賢首大師はイラン人だったようだ。
西域アジア民族の大師が、インドで発祥した華厳仏教を、中国の地で究明したのだ。
大師は偏狭な宗教には興味が無く、その思想は雄大なインターナショナル感覚だった。
大師は華厳の「無限世界」に魅かれ、そしてその世界を実感したのだと感じる。
大師は「一断一切断 一成一切成 一顕一切顕」という華厳行の言葉を残したが、
その言葉に、大師の「確信」が込められていると感じる。
人間には理解困難な華厳経を、その生涯を賭けて解説してくれた大師に感謝する。
言葉では絶対に表現できない世界を、それでも何とか表現しようと苦闘した大師に感謝する。
大師は直観で華厳を感じた。だがそれを言葉に現わせば極めて難解な解説になる。
その辺の事情を誤解する仏教者も多いが、大師の本意は「野性の華厳」だと、そう感じる。
歴史を彩る世界的版画家の「棟方志功」は、華厳行者だと呼べる。
「華厳の二字、ただそれだけで大きな何かを感じ続けてきました」と棟方師は語った。
棟方志功の気宇壮大な作品群は、華厳の感得から生まれたのだと感じる。
天才版画家の感じた華厳は、「野性の華厳」だったに違いない。
野性の華厳は、一瞬一瞬を突き抜けていく!!!
**** WOLFTEMPLE ****