<2008年4月15日>

他者の心に越境して同体とならねば、他者の痛みと苦しみは分からない。

同体となって他者の痛みと苦しみを知れば、同情心が心の底から湧き上がる。

口先だけの美言ではない、本物の本心の同情心が湧き上がる。

虚しい理屈など消え去り、「なんとしてでも、何とかしたい!!」心境になる。

己の悩みなど打ち忘れ、ただその者を救いたい一心となる。

我を忘れて他者を想うとき、それがつまり「慈悲心」なのだ。

たとえ何も出来なくてもいい。

「かわいそう!なんとかしてあげたい!」と想うだけでもいいのだ。

想うと想わないとでは、完全に別世界なのだ。

その時の想いは、永遠に消えないのだ。

その想いはその人の心に刻み込まれ、その後の行動に必ず影響するのだ。

その想いは、必ず、行動に反映されていくのだ。


他者の苦しみを見て、何も感じなければ人間の世は終わりだ。

他者の苦しみに同情すらも失ったなら、もはやこの世は終わりなのだ。

何故なら、その「極自分本位」の姿勢が、調和の摂理から逸脱しているからだ。

関心が常に自分たちのことだけに終わったら、

人間は調和の一員としての資格を放棄したこととなるのだ。

いや、人間はすでに放棄しているのだ。

つまり自らに、終わりの選択を済ませているのだ。

人間は、異種族の境遇に対して、とことん冷酷な無関心を貫く。

身近な動物たち、罪なき純真たちを、平然と地獄に放り込み、平然と眺める。

人間の感性は濁り切っているのか??

澄んだ感性の人間は、どこにいるのか??

なんで人間はこんなに無慈悲な生き物になってしまったのか??


仏教の第一義は「不殺生」だ。

そこには、さまざまな意義が隠されている。

もちろん、「尊厳の絶対平等」の意義も含まれている。

あらゆる命が絶対平等の尊厳を有するからこそ、不殺生なのだ。

「仏教国」は総じて凶暴性が少ないと感じる。沈着し、穏やかだ。

だが仏教を迫害・排斥した国は、不思議と凶暴になり、調和が乱れるようだ。

動物に対して、自然に対して、極めて残虐になるのだ。

現代人は仏教を非常に軽視し、その真髄を知ろうともしないが、

仏教ほど「共生」に精通した宗教は他に存在しないだろう。

いかなるエコロジー学も、仏教の前では幼稚極まる初歩次元だ。

「信仰して欲しい」と言っている訳ではない。

この殺伐の時代に、せめてこの偉大な共生思想に関心を持って欲しいと思うのだ。

そうすれば、いかに「共生心」が重大な鍵かが分かるはずだ。

同情心が慈悲心が共生心が、地球を救う唯一最大の要素であることが分かるはずだ。


**** WOLFTEMPLE ****