<2008年4月11日>

人間には、「共生」は無理かも知れない。

だが、そうだとしても、

このまま他の命たちに迷惑を掛ける訳にはいかない。

だからせめて、「共存」の道を探求しなくてはならない。

「共に生きる」ことが無理でも、人間が地球に存在する以上、

何としてでも「迷惑を掛けずに存在する」方法を探究しなくてはならない。


人間は「死」を受け入れ難い。

人間は「寿命」でさえも怖れる。

人間は「献身」を拒絶する。

人間は調和のために己の身を捧げることができない。

人間は偉大な調和に於ける献身の意味を、どうしても理解できない。

自然界の命たちが普通に覚悟しているのに、人間は覚悟できない。

人間はひたすら自分たちだけの延命を望み、それを正義だと妄信する。

そのためには異種の命の尊厳など微塵も顧みない。

そして調和の中には「死」も含まれていることを、人間だけは認めようとはしない。

大自然の命たちと人間の最大の違いは、この「死生観」なのだ。


人間は「不便生活」には戻れない。

人間は忍耐の力が極端に弱いのだ。

人間の関心は、常に「快適」と「快楽」なのだ。

「忍耐」を知らねば偉大な調和は理解できないのに、

人間は忍耐を嫌悪し、忍耐の美学を放棄したのだ。


人間はキャンプに行っても「レジャーキャンプ」に終わる。

なんにもしない虫たちまで殺虫スプレーで殺し、

テントで身を囲って星空も眺めずに寝る。

そして、お決まりの「バーベキュー」が最大のハイライトだ。

森に強烈な匂いを撒き散らして、好き放題に盛り上がる。

音楽をかけ続ける人もいる。

わざわざキャンプで音楽を聞くというのだ。

大自然の声なき声を、一体いつ聴くというのだ??

それとも、静寂の中の声なき声を聴くつもりも無いのか??

あるいは写真やビデオの記録に熱中し、心に刻む感動を忘れる人も多い。

心に刻まれた感動は、永遠に色褪せないというのに。

「風景」だけに気をとられる人も多い。

風景は大自然のほんの一部分に過ぎないというのに、

風景だけに感心し、命たちの境涯を感じようともしない。

心の目で見れば、心の耳で聴けば、

大自然の申し子たちの真の姿を知ることができるというのに。


人間は仁義を知らない。

育てた家族を平気で食う。

育てられた命は「家族」の意識で義を果たしているというのに、

人間は彼らの純情を無視して、ある日突然に処刑する。

家族だと信じた者たちに殺される彼らの悲しみは、人間の心に届かない。

だがインテリたちはその行為を、人間生活の原点だと賛辞する。

命を殺して食う行為を、自然回帰の姿だと妄想するのだ。

食う為にわざわざ育てるなど、前代未聞だ。

自然界に、そんな屈折した発想は存在しない。

もし猛獣が異種生命を一旦育てたなら、彼らは一生、家族の誓いを果たすだろう。

家族の従順を強要しながら「食う下心」を隠し持っているのは、人間だけなのだ。


「例え」を挙げればきりが無いが、

これほどに特殊な傾向性を持つ人間が、

これほどに逸脱した発想の人間が、

これほどに支配欲・優越意識の強烈な人間が、

これほどに欲望の果てない人間が、

これほどに手段を選ばずに凶暴性を発揮する人間が、

大自然との「共生」を覚悟し続けることは不可能だろう。

だからせめて、他の命たちに迷惑を掛けずに存在する方法を探究すべきだ。


「いくらなんでも、それは言い過ぎだろう!」と思う人は、「実態」を知らない人だ。

人間の行為の、その凄まじい隠された実態を知れば、言語を絶した拷問世界を知れば、

私の言葉がいかに控え目で、いかに遠慮深いかが分かるはずだ。

ほとんどの人は、人間の仕業の「地獄」のことを知らないのだ!!

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