<2008年4月10日>

「動物愛護」の真意は、世間に認知されていない。

愛護の奥に秘められた壮大な精神を知らずに、世間は曲解する。

動物を理解し、動物の尊厳を守ることなど、当たり前の話だ。

その当たり前の話でさえ、世間は頑なに拒絶する。

そんな姿勢で、なんで「自然との共生」などできるのだ??

身近な犬猫の心情さえも分からずに、なんで自然界の野性を理解できるというのだ??

世間は軽々しく「共生」を語るが、世間にそれを語る資格など微塵も無い!!


「聞く耳」を持たねばならない。

「互いに」聞く耳を持たねばならない。

堂々と、最後まで、相手の話を静かに聞くのだ。

途中で話を折らずに、最後まで相手に語らせるのだ。

自分の話はその後だ。

相手の話の「全体・核心」を素早く的確に把握し、

それを認識した上で自分の話を語るのだ。

決して「断片」で判断してはならない。

決して「断片の言葉」で判断してはならない。

それが始まったら、もはや対話ではない。

単なる「揚げ足取り」だ。醜い「粗捜し」だ。

だから常に、相手の「真意」を洞察していくのだ。

「言葉の背景の真意」を、刻々と洞察していくのだ。

だから、相手に思う存分に語らせる度量を持たねばならない。

堂々とした度量が、対話を可能にするのだ。

余裕のない狭量では、対話は絶対に不可能なのだ!!


世間は、愛護活動家の真意を聞こうとしない。

偏見で「変人」だと認識するから、聞く耳を持たない。

だがその偏見の姿勢は、他の全てに及んで共通している。

だから世間の諸問題は一向に解決していかないのだ。


愛護活動家同士の対話も成されていない。

愛護のスタイルが違うからといって、批判したり拒絶したりする。

だが、そんなところにエネルギーを使っている場合ではない。

そんな方向にエネルギーを使う猶予など無いのだ。

もっともっと強大な難題が控えているのだ。

「世論」というモンスターが相手なのだ!!


例えスタイルが違っても、例え解釈が違っても、学び合えばいいのだ。

なぜ、学び合わないのだろう?? 不思議でならない。

学ぶことは山ほどあるのだ。

この深い深い愛護世界で、学ぶべきことは無限にあるのだ。

自分では気づかないことだって一杯あるのだ。

誰しも、気づかない部分、不足の部分が、きっとあるのだ。

それを、互いに学び合うのだ。

素直な純粋心境で、吸収し合うのだ。

純粋の極致の動物たちを救う人は、常に純粋心境であらねばならないのだ。

そうでなければ、動物たちを救えない!!


愛護の人は、まず、「動物の真意」を知らねばなりません。

彼らには百花繚乱の個性があります。だから、真の対話が不可欠なのです。

**** WOLFTEMPLE ****