<2008年4月1日>
今日は大雪だ。
この森は、まだ冬なのだ。
山から町に降りると夏のような暑さなのに、ここは本当に別世界だ。
低地の暑さの中で暮らす犬たちのことを想うと、とても心配になる。
犬にとって暑さは大敵なので、みなさん、どうかご配慮ください。
先日、図書館に行って、ショックを受けた。
自然環境レポートの本の表紙に、殺されたゴリラの写真が載っていた。
アフリカの内戦によって自然は破壊され、そして罪なき動物たちが殺されている。
数頭のゴリラが、地面に仰向けに寝かされ、
しかしその手足は十字架のように木枠に縛られ、
そして無念の表情で目を閉じていた。
見事なゴリラたちだった。おそらく家族だろう。
見事な骨格と見事な筋肉の、素晴らしく美しいゴリラたちだった。
ゴリラは完全菜食主義者だ。
完全菜食で、屈強な人間の数倍以上の力を持つのだ。
だがゴリラは実に平和主義者であり、暴力など振るわない。
野性の闘いさえも、極力彼らは敬遠するのだ。
極力、「威嚇」の範囲に留めておくのだ。
だが人間は、好き放題にゴリラを狩ってきた。
残虐非道の「ワナ」で密猟し、地獄の拷問を与えた。
アフリカの人間が大自然の中で暮らすからといって、
彼らが大自然との「共生心」を持っている訳ではないのだ。
彼らもまた、「人間優越意識」に染まり切っているのだ。
「手段を選ばぬ方法」で冷酷に動物を虐殺するのだ。
昔、母象が人間に囲まれ、何十本と槍を貫かれ、
その激痛のショックで「赤ちゃん」を産み落としてしまう写真を見た。
あの忍耐強い野性が衝撃を受けるほどの、途方もない槍の痛みだったのだ。
その時の母象の胸中を想うと、赤ちゃんを想う母象の無念を想うと、何日も眠れなかった。
北極のエスキモー民族もそうだ。
彼らは何千年と「エスキモー犬」の献身のお陰で生きてこれたというのに、
遂に感謝の気持ちを持たなかった。一片の祈りも捧げなかった。
徹頭徹尾、エスキモー犬を「道具」として酷使した。
とことん、「犬は道具。人間は偉い。人間は特別だ。」と信じているのだ。
冬季には激しい飢えの中で命懸けで重いソリを曳くエスキモー犬を、
夏季には鎖に繋いで延々と放置する。誰ひとり見向きもしない。
以前、鎖に繋がれたままで、飢えの果てに死んだ母犬の話を聞いた。
母犬の胸には、やはり飢えて死んだ子犬たちが重なっていたという。
自分の飢えはもちろん苦しみの極致だが、
愛しい子犬たちが飢えに泣く姿を見ることは、それよりもさらに辛かっただろう。
その母子の悲しみを、誰ひとり、気にも留めなかった。
これが「自然と生きる民族」なのか??
インテリたちは辺境の民族をやたらと持ち上げるが、素晴らしい!と賛辞するが、
私はいつも疑問に思っていた。インテリたちの話は、いつも当てにはならないのだ。
何故なら「原人」の時代からすでに、人類の「無法」が始まっていたからだ。
自然と共生していたと思われがちな太古でさえ、人類の暴虐は始まっていたのだ。
「文明の中にいるから呑気な批判ができるのだ」と言われても、私は一向に動じない。
私は「野性界」の代弁者として語っているのだ。
私は辺境民族以上の苦しみを修行したつもりだし、
たとえ自分が激しい飢えの中にいても、手段を選ばぬ方法など絶対に発想しない。
そしてその覚悟で生きている。いつも、それを想定してきたのだ。
アフリカの内戦、中東の内戦、民衆たちは手段を選ばずに自然を破壊して戦争した。
インテリたちはいつも民衆を擁護するが、野性界から言わせてもらえば、
彼ら民衆たちも「独裁者」だ。冷酷な支配者なのだ。
だが、飢えに苦しむ貧しい国のことは私も知っている。
しかしその難問を解決するには、全世界が「非肉食」に変わるしかない。
それしか他に方法がないのだ。それが唯一の解決手段なのだ。
世界はその方法で豊かになり、そして飢えの国へどんどん、惜しみなく援助するのだ。
「人権」を憂うなら、このくらいのスケールで発想しなければ、絶対に解決などしないのだ。
そして「フェアトレード」を徹底して貫くことだ。絶対に搾取は許されないのだ。
全世界が互いに助け合うのだ。惜しみなく!!
肉を食わないだけなのだ。こんなに簡単なことはない。
世の中には、肉以外の美味しい食べ物が一杯一杯あるのだ!!
インドの「ガンジー」は、「動物の扱いの状況を見れば、その国の品格が分かる」と語った。
チベットの「ダライ・ラマ」は、「動物への虐待は、いかなる言い訳も通用しない」と語った。
日本の宗教者にも、日本の指導者にも、このような格言を語ってもらいたい。
**** WOLFTEMPLE ****
今日は大雪だ。
この森は、まだ冬なのだ。
山から町に降りると夏のような暑さなのに、ここは本当に別世界だ。
低地の暑さの中で暮らす犬たちのことを想うと、とても心配になる。
犬にとって暑さは大敵なので、みなさん、どうかご配慮ください。
先日、図書館に行って、ショックを受けた。
自然環境レポートの本の表紙に、殺されたゴリラの写真が載っていた。
アフリカの内戦によって自然は破壊され、そして罪なき動物たちが殺されている。
数頭のゴリラが、地面に仰向けに寝かされ、
しかしその手足は十字架のように木枠に縛られ、
そして無念の表情で目を閉じていた。
見事なゴリラたちだった。おそらく家族だろう。
見事な骨格と見事な筋肉の、素晴らしく美しいゴリラたちだった。
ゴリラは完全菜食主義者だ。
完全菜食で、屈強な人間の数倍以上の力を持つのだ。
だがゴリラは実に平和主義者であり、暴力など振るわない。
野性の闘いさえも、極力彼らは敬遠するのだ。
極力、「威嚇」の範囲に留めておくのだ。
だが人間は、好き放題にゴリラを狩ってきた。
残虐非道の「ワナ」で密猟し、地獄の拷問を与えた。
アフリカの人間が大自然の中で暮らすからといって、
彼らが大自然との「共生心」を持っている訳ではないのだ。
彼らもまた、「人間優越意識」に染まり切っているのだ。
「手段を選ばぬ方法」で冷酷に動物を虐殺するのだ。
昔、母象が人間に囲まれ、何十本と槍を貫かれ、
その激痛のショックで「赤ちゃん」を産み落としてしまう写真を見た。
あの忍耐強い野性が衝撃を受けるほどの、途方もない槍の痛みだったのだ。
その時の母象の胸中を想うと、赤ちゃんを想う母象の無念を想うと、何日も眠れなかった。
北極のエスキモー民族もそうだ。
彼らは何千年と「エスキモー犬」の献身のお陰で生きてこれたというのに、
遂に感謝の気持ちを持たなかった。一片の祈りも捧げなかった。
徹頭徹尾、エスキモー犬を「道具」として酷使した。
とことん、「犬は道具。人間は偉い。人間は特別だ。」と信じているのだ。
冬季には激しい飢えの中で命懸けで重いソリを曳くエスキモー犬を、
夏季には鎖に繋いで延々と放置する。誰ひとり見向きもしない。
以前、鎖に繋がれたままで、飢えの果てに死んだ母犬の話を聞いた。
母犬の胸には、やはり飢えて死んだ子犬たちが重なっていたという。
自分の飢えはもちろん苦しみの極致だが、
愛しい子犬たちが飢えに泣く姿を見ることは、それよりもさらに辛かっただろう。
その母子の悲しみを、誰ひとり、気にも留めなかった。
これが「自然と生きる民族」なのか??
インテリたちは辺境の民族をやたらと持ち上げるが、素晴らしい!と賛辞するが、
私はいつも疑問に思っていた。インテリたちの話は、いつも当てにはならないのだ。
何故なら「原人」の時代からすでに、人類の「無法」が始まっていたからだ。
自然と共生していたと思われがちな太古でさえ、人類の暴虐は始まっていたのだ。
「文明の中にいるから呑気な批判ができるのだ」と言われても、私は一向に動じない。
私は「野性界」の代弁者として語っているのだ。
私は辺境民族以上の苦しみを修行したつもりだし、
たとえ自分が激しい飢えの中にいても、手段を選ばぬ方法など絶対に発想しない。
そしてその覚悟で生きている。いつも、それを想定してきたのだ。
アフリカの内戦、中東の内戦、民衆たちは手段を選ばずに自然を破壊して戦争した。
インテリたちはいつも民衆を擁護するが、野性界から言わせてもらえば、
彼ら民衆たちも「独裁者」だ。冷酷な支配者なのだ。
だが、飢えに苦しむ貧しい国のことは私も知っている。
しかしその難問を解決するには、全世界が「非肉食」に変わるしかない。
それしか他に方法がないのだ。それが唯一の解決手段なのだ。
世界はその方法で豊かになり、そして飢えの国へどんどん、惜しみなく援助するのだ。
「人権」を憂うなら、このくらいのスケールで発想しなければ、絶対に解決などしないのだ。
そして「フェアトレード」を徹底して貫くことだ。絶対に搾取は許されないのだ。
全世界が互いに助け合うのだ。惜しみなく!!
肉を食わないだけなのだ。こんなに簡単なことはない。
世の中には、肉以外の美味しい食べ物が一杯一杯あるのだ!!
インドの「ガンジー」は、「動物の扱いの状況を見れば、その国の品格が分かる」と語った。
チベットの「ダライ・ラマ」は、「動物への虐待は、いかなる言い訳も通用しない」と語った。
日本の宗教者にも、日本の指導者にも、このような格言を語ってもらいたい。
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