<2008年3月20日>
昨夜から雪だ。
春の雪は重いので厄介だ。
気温が高いので湿った雪となり、除雪も大変だ。
雪に関しては、真冬の粉雪の方が遥かに助かる。
今日は「戦争」についての私観を書く。
戦争は「闘い」ではなく「争いの戦い」だ。
人類の歴史は戦争の歴史といっても過言ではない。
人間は戦いが好きなので、終わったと思ったらまたすぐに始めるのだ。
平和の期間など、いつも束の間なのだ。
ヨーロッパでもアジアでもアメリカでも、世界のどこでも戦争の歴史だ。
もちろん戦争の理由は実に様々だし、そこには根深い原因が潜んでいる。
だから安易に戦争を分析することは出来ない。
第三者には窺い知れない理由が隠されている場合も考えられるのだ。
だが、だからといって戦争は肯定されるはずがない。
戦争による「破壊」は莫大だし、それは取り返しの付かない規模となるからだ。
なぜ戦争に走るかといえば、それ以外に手段を考えられなかったからだ。
いや、それ以外の手段を考えることが出来ても戦争を始めたかも知れない。
そこには単なる国益問題だけでなく憎悪の感情も働くから、
結局、相手を粉砕せずにはいられなくなるのだろう。
国益問題を超えて、理性を超えて、民族全体のエキサイトが止まらないのだ。
国だ軍部だという以上に、民族全体の感情が戦争を過熱させる場合が多いのだ。
人間は終戦の後に「誰が悪いんだ!」と犯人探しをするのが大好きだが、
誰かを吊るし上げるのが大好きだが、人民裁判が大好きだが、結局それも戦争体質だ。
国を挙げての戦いの際に、人はそれぞれポジションを与えられ、その任務を遂行せざるを得ない。
その立場に置かれたら、仮に誰であっても「行動」せざるを得ない。
もはや誰も「民族の動き」に抗うことなど出来なくなるのだ。
それほどに「戦争」とは特殊な次元の状況なのだ。
だから誰にでも責任があるのだ。みんなが暗黙の内に加担していたのだ。民族として。
それなのに、いざ終戦すると「誰が悪い」「その誰かを探せ」「その誰かを処罰しろ」となる。
処罰せずには、リンチせずには、どうしても腹の虫が納まらないのだ。
そうなったら、いくら謝ったところで、許されない。
もはや謝罪など眼中に無く、どうしても「リンチ」を実行したいのだ。これが人間だ。
「処刑」の場に民衆が押し寄せ、そこは熱狂の渦に巻き込まれる。
それが残酷であればあるほど人々は熱狂する。
その腹いせの標的が、苦しめば苦しむほど人々は満足する。世界中でそうだった。
誰が悪いのではない。「戦争」が狂気なのだ。
一旦戦争となってしまったら、ひたすら狂気が走るのだ。それが戦争なのだ。
世界中が、この狂気を曝け出してきた。狂気に走らなかった国はいない。
モンゴル連合軍は西アジア・ヨーロッパに至るまで大侵略した。
ひたすら征服目的に進撃した。
中国・朝鮮国も常に脅威に晒され、国中を蹂躙され、属国を強制された。
日本も蒙古高麗連合軍に2回侵攻され、甚大な被害を被った。
対馬・壱岐の島民は言語を絶する暴虐を受けた。
中国は三国志にもあるように、延々と戦争を繰り返した。
或いは北部東北部の騎馬民族からの脅威と戦い、膨大な国力を費やした。
朝鮮国は複数の周辺民族から蹂躪され、脅され続けてきた。
そしてアジアはヨーロッパの支配に苦しめられた。
ヨーロッパ諸国は世界中を植民地支配して強欲に搾取し続けた。
日本も戦乱が繰り返された。
そしてアジア諸国にも遠征して戦争を始めた。
大義を目指したがそれは理想に終り、結局「戦争」そのものに成り果ててしまった。
要するに、あらゆる国が戦争に走るのだ。狂気に走るのだ。
最初はやむなき事情があったとしても、一旦始まれば狂気の暴力に変貌するのだ。
これは人間の特殊な傾向性なのだ。
だがその中で、ひとつだけ理解できる部分がある。
肯定という意味ではなく「分かる」という意味だ。
それは「民族を想う気持ち」「国を想う気持ち」だ。
これは軍部の話ではない。
国とか軍部とか民衆とかの枠を超えた「戦士」の話だ。
老若男女問わずにその心境を持つ民族戦士の話だ。
いかに狂気の流れの中であろうとも、「純粋な一途の気持ち」は確かに存在したのだ。
己の命を賭して、己の命を捧げて、民族を国を守ろうとした「純情」が存在したのだ。
平和の中の現代人は、この気持ちがどうしても分からないようだ。
「なんで国のために自分が死ななきゃならないの?? 最高に不幸!!」と誰もが言う。
現代人は、とにかく「死ぬことは不幸!!」と確信しているから、
「戦死」は不幸以外のなにものでもないのだ。
或いは「他者のために自分が死ぬこと」など想像さえ出来ないのだ。
だから、「全てのあらゆる戦死者は、上からの命令で死んだ」と思い込んで疑わないのだ。
おそらく、特に日本の現代人には、戦時下の戦士の純情は、理解不可能だと思う。
戦争となれば、自国も相手国も双方が死に物狂いの狂気となる。
だがその異次元の中で、唯一その純情だけを支えに生きた人間たちが存在したことを、
その心境の戦士も多かったことを、それだけは知っておくべきだと思う。
私は良い悪いの賛否の話をしている訳ではない。
現に世界には、今もそのような心境の戦士たちが存在しているのであり、
それを知らずに戦争は理解できないから、だから知るべきなのだ。
それを知らなければ遂には対話も不可能となるからだ。
その純情の賛否は別として、戦没者の当時の心境を理解することも、真の慰霊となるのだ。
戦争批判とは別の次元で、当時の極限状況下での彼らの本心を知るべきだと思うのだ。
未練の心で無念に死んでいった人間ばかりではないのだ。
自らが民族を背負う心意気で、誇り高く死んだ戦士も多かったのだ。
彼らの心の中では、それは栄光の死だったのだ。
彼らに対して「無駄死にでしたね!かわいそうに!」だけでは、慰霊にはならない。
賛否は別として、それとは異なる次元で、彼らの誇りを理解するべきなのだ。
彼らにとって「上からの命令」なんて何の意味も持たない。
彼ら戦士の本心からすれば、それは単なる組織の中の「指令」に過ぎないのだ。
世界にはこのような心境の民族戦士が存在することも知らなければ、
日本は世界のさまざまな真意を知らずに終わり、つまり対話できずに終わるのだ。
私の言いたかったことは賛否論ではなく、その心境の事実だ。
ここでの話は独裁政権や武力政治による強行戦争下の心境の話では無い。
目には見えない秘められた民族意識を語ったのだ。
だが、その意識が例え純粋だったとしても、戦争は悲劇を招くだけだ。
しかしエキサイトした民族意識は、悲劇の結末など眼中に無くなる。
だから、その心境を理解することと賛否は全く別問題なのだ。
世間では「平和」が合言葉だが、しかし不思議な現象がある。
戦争小説が非常に人気を呼ぶのだ。
日本の戦国史や中国の三国志やモンゴルの遠征史は常に大人気なのだ。
そこでは戦争が美化され、軍人が英雄視されて描かれる。
世間は一方では戦争を叫弾しながらも、一方では英雄伝として祭り上げる。
そして誰も戦争小説の人気に対して疑問を持たないし、一向に批難もしない。
これはどういうことなのか、とても不思議だ。
世間の本意は裏腹なのだろうか?? やはり戦いが好きでしょうがないのか??
とても理解に苦しむ・・・。
戦争を否定することは簡単だ。誰にでも出来ることだ。
だが異次元の状況下で、尚も自分は今の心境を維持できるのかを、
尚も自分は正気を保てるのかを、それを自問してみるべきだと思う。
戦争勃発は自国の事情だけではない。相手国の事情もある。
戦争否定は簡単だが、相手国をも説き伏せなければならないのだ。
思想の異なる民族に対して、それだけの説得力を自分が持っているかを自問してみるべきだ。
心底和解を願うのなら、それだけの対話力を自分が備える努力をしておくべきだ。
戦争には莫大な財力を使う。莫大な国力消耗が伴う。
両国ともに、それを覚悟で始めるのだ。
気楽に始める訳ではないのだ。余程の事情が隠されているのだ。
相手国の相手民族のその覚悟に対して、果たして自分が説得できるのかを想定してみるべきだ。
もし自国の民衆全員が対話の気迫を持ったなら、相手国との和解も可能になると思う。
戦争で犠牲になるのは人間だけではない。
人間以上に、動物や大自然が蹂躪される。
軍用動物など、完全に消耗品として極限の苦役につかされた。
古代は「煮えたぎった油」を背中に背負わされて敵陣に放たれる軍用犬がいた。
最も危険で最も過酷な任務は、兵士ではなく常に軍用犬に押し付けられた。
軍用象は敵の攻撃の標的となり、無残に集中攻撃を受け、身体中を破壊された。
軍用馬は時には「生きながら身体から肉を削り取られて」兵士の食糧となった。
その方法だと食糧としての保存が利くから、馬は肉を削り取られながら行進を続けたのだ。
戦争が起これば動物園の動物は処刑された。
「餓死」の方法で殺された象もいた。チェーンで繋がれたままに苦しみ抜いて死んだのだ。
首をワイアーロープで巻かれて機械の力で絞め殺されたシロクマもいた。
おそらく普通の銃では死なないと判断されたのだろう。
野良犬も飼犬も次々と残酷に撲殺されていった。食糧になった犬も多い。
首に捕獲ワイアーを廻されて、その首が千切れるほどに引きずり回されて死んだ犬も多い。
森は破壊され、住む家を失った動物の数は天文学的な数字に昇る。
こうして戦争によって世界中の動物たちが、途方もない暴虐を受けたのだ。
人間だけが被害者ではないのだ。それを忘れないで欲しい。
**** WOLFTEMPLE ****
昨夜から雪だ。
春の雪は重いので厄介だ。
気温が高いので湿った雪となり、除雪も大変だ。
雪に関しては、真冬の粉雪の方が遥かに助かる。
今日は「戦争」についての私観を書く。
戦争は「闘い」ではなく「争いの戦い」だ。
人類の歴史は戦争の歴史といっても過言ではない。
人間は戦いが好きなので、終わったと思ったらまたすぐに始めるのだ。
平和の期間など、いつも束の間なのだ。
ヨーロッパでもアジアでもアメリカでも、世界のどこでも戦争の歴史だ。
もちろん戦争の理由は実に様々だし、そこには根深い原因が潜んでいる。
だから安易に戦争を分析することは出来ない。
第三者には窺い知れない理由が隠されている場合も考えられるのだ。
だが、だからといって戦争は肯定されるはずがない。
戦争による「破壊」は莫大だし、それは取り返しの付かない規模となるからだ。
なぜ戦争に走るかといえば、それ以外に手段を考えられなかったからだ。
いや、それ以外の手段を考えることが出来ても戦争を始めたかも知れない。
そこには単なる国益問題だけでなく憎悪の感情も働くから、
結局、相手を粉砕せずにはいられなくなるのだろう。
国益問題を超えて、理性を超えて、民族全体のエキサイトが止まらないのだ。
国だ軍部だという以上に、民族全体の感情が戦争を過熱させる場合が多いのだ。
人間は終戦の後に「誰が悪いんだ!」と犯人探しをするのが大好きだが、
誰かを吊るし上げるのが大好きだが、人民裁判が大好きだが、結局それも戦争体質だ。
国を挙げての戦いの際に、人はそれぞれポジションを与えられ、その任務を遂行せざるを得ない。
その立場に置かれたら、仮に誰であっても「行動」せざるを得ない。
もはや誰も「民族の動き」に抗うことなど出来なくなるのだ。
それほどに「戦争」とは特殊な次元の状況なのだ。
だから誰にでも責任があるのだ。みんなが暗黙の内に加担していたのだ。民族として。
それなのに、いざ終戦すると「誰が悪い」「その誰かを探せ」「その誰かを処罰しろ」となる。
処罰せずには、リンチせずには、どうしても腹の虫が納まらないのだ。
そうなったら、いくら謝ったところで、許されない。
もはや謝罪など眼中に無く、どうしても「リンチ」を実行したいのだ。これが人間だ。
「処刑」の場に民衆が押し寄せ、そこは熱狂の渦に巻き込まれる。
それが残酷であればあるほど人々は熱狂する。
その腹いせの標的が、苦しめば苦しむほど人々は満足する。世界中でそうだった。
誰が悪いのではない。「戦争」が狂気なのだ。
一旦戦争となってしまったら、ひたすら狂気が走るのだ。それが戦争なのだ。
世界中が、この狂気を曝け出してきた。狂気に走らなかった国はいない。
モンゴル連合軍は西アジア・ヨーロッパに至るまで大侵略した。
ひたすら征服目的に進撃した。
中国・朝鮮国も常に脅威に晒され、国中を蹂躙され、属国を強制された。
日本も蒙古高麗連合軍に2回侵攻され、甚大な被害を被った。
対馬・壱岐の島民は言語を絶する暴虐を受けた。
中国は三国志にもあるように、延々と戦争を繰り返した。
或いは北部東北部の騎馬民族からの脅威と戦い、膨大な国力を費やした。
朝鮮国は複数の周辺民族から蹂躪され、脅され続けてきた。
そしてアジアはヨーロッパの支配に苦しめられた。
ヨーロッパ諸国は世界中を植民地支配して強欲に搾取し続けた。
日本も戦乱が繰り返された。
そしてアジア諸国にも遠征して戦争を始めた。
大義を目指したがそれは理想に終り、結局「戦争」そのものに成り果ててしまった。
要するに、あらゆる国が戦争に走るのだ。狂気に走るのだ。
最初はやむなき事情があったとしても、一旦始まれば狂気の暴力に変貌するのだ。
これは人間の特殊な傾向性なのだ。
だがその中で、ひとつだけ理解できる部分がある。
肯定という意味ではなく「分かる」という意味だ。
それは「民族を想う気持ち」「国を想う気持ち」だ。
これは軍部の話ではない。
国とか軍部とか民衆とかの枠を超えた「戦士」の話だ。
老若男女問わずにその心境を持つ民族戦士の話だ。
いかに狂気の流れの中であろうとも、「純粋な一途の気持ち」は確かに存在したのだ。
己の命を賭して、己の命を捧げて、民族を国を守ろうとした「純情」が存在したのだ。
平和の中の現代人は、この気持ちがどうしても分からないようだ。
「なんで国のために自分が死ななきゃならないの?? 最高に不幸!!」と誰もが言う。
現代人は、とにかく「死ぬことは不幸!!」と確信しているから、
「戦死」は不幸以外のなにものでもないのだ。
或いは「他者のために自分が死ぬこと」など想像さえ出来ないのだ。
だから、「全てのあらゆる戦死者は、上からの命令で死んだ」と思い込んで疑わないのだ。
おそらく、特に日本の現代人には、戦時下の戦士の純情は、理解不可能だと思う。
戦争となれば、自国も相手国も双方が死に物狂いの狂気となる。
だがその異次元の中で、唯一その純情だけを支えに生きた人間たちが存在したことを、
その心境の戦士も多かったことを、それだけは知っておくべきだと思う。
私は良い悪いの賛否の話をしている訳ではない。
現に世界には、今もそのような心境の戦士たちが存在しているのであり、
それを知らずに戦争は理解できないから、だから知るべきなのだ。
それを知らなければ遂には対話も不可能となるからだ。
その純情の賛否は別として、戦没者の当時の心境を理解することも、真の慰霊となるのだ。
戦争批判とは別の次元で、当時の極限状況下での彼らの本心を知るべきだと思うのだ。
未練の心で無念に死んでいった人間ばかりではないのだ。
自らが民族を背負う心意気で、誇り高く死んだ戦士も多かったのだ。
彼らの心の中では、それは栄光の死だったのだ。
彼らに対して「無駄死にでしたね!かわいそうに!」だけでは、慰霊にはならない。
賛否は別として、それとは異なる次元で、彼らの誇りを理解するべきなのだ。
彼らにとって「上からの命令」なんて何の意味も持たない。
彼ら戦士の本心からすれば、それは単なる組織の中の「指令」に過ぎないのだ。
世界にはこのような心境の民族戦士が存在することも知らなければ、
日本は世界のさまざまな真意を知らずに終わり、つまり対話できずに終わるのだ。
私の言いたかったことは賛否論ではなく、その心境の事実だ。
ここでの話は独裁政権や武力政治による強行戦争下の心境の話では無い。
目には見えない秘められた民族意識を語ったのだ。
だが、その意識が例え純粋だったとしても、戦争は悲劇を招くだけだ。
しかしエキサイトした民族意識は、悲劇の結末など眼中に無くなる。
だから、その心境を理解することと賛否は全く別問題なのだ。
世間では「平和」が合言葉だが、しかし不思議な現象がある。
戦争小説が非常に人気を呼ぶのだ。
日本の戦国史や中国の三国志やモンゴルの遠征史は常に大人気なのだ。
そこでは戦争が美化され、軍人が英雄視されて描かれる。
世間は一方では戦争を叫弾しながらも、一方では英雄伝として祭り上げる。
そして誰も戦争小説の人気に対して疑問を持たないし、一向に批難もしない。
これはどういうことなのか、とても不思議だ。
世間の本意は裏腹なのだろうか?? やはり戦いが好きでしょうがないのか??
とても理解に苦しむ・・・。
戦争を否定することは簡単だ。誰にでも出来ることだ。
だが異次元の状況下で、尚も自分は今の心境を維持できるのかを、
尚も自分は正気を保てるのかを、それを自問してみるべきだと思う。
戦争勃発は自国の事情だけではない。相手国の事情もある。
戦争否定は簡単だが、相手国をも説き伏せなければならないのだ。
思想の異なる民族に対して、それだけの説得力を自分が持っているかを自問してみるべきだ。
心底和解を願うのなら、それだけの対話力を自分が備える努力をしておくべきだ。
戦争には莫大な財力を使う。莫大な国力消耗が伴う。
両国ともに、それを覚悟で始めるのだ。
気楽に始める訳ではないのだ。余程の事情が隠されているのだ。
相手国の相手民族のその覚悟に対して、果たして自分が説得できるのかを想定してみるべきだ。
もし自国の民衆全員が対話の気迫を持ったなら、相手国との和解も可能になると思う。
戦争で犠牲になるのは人間だけではない。
人間以上に、動物や大自然が蹂躪される。
軍用動物など、完全に消耗品として極限の苦役につかされた。
古代は「煮えたぎった油」を背中に背負わされて敵陣に放たれる軍用犬がいた。
最も危険で最も過酷な任務は、兵士ではなく常に軍用犬に押し付けられた。
軍用象は敵の攻撃の標的となり、無残に集中攻撃を受け、身体中を破壊された。
軍用馬は時には「生きながら身体から肉を削り取られて」兵士の食糧となった。
その方法だと食糧としての保存が利くから、馬は肉を削り取られながら行進を続けたのだ。
戦争が起これば動物園の動物は処刑された。
「餓死」の方法で殺された象もいた。チェーンで繋がれたままに苦しみ抜いて死んだのだ。
首をワイアーロープで巻かれて機械の力で絞め殺されたシロクマもいた。
おそらく普通の銃では死なないと判断されたのだろう。
野良犬も飼犬も次々と残酷に撲殺されていった。食糧になった犬も多い。
首に捕獲ワイアーを廻されて、その首が千切れるほどに引きずり回されて死んだ犬も多い。
森は破壊され、住む家を失った動物の数は天文学的な数字に昇る。
こうして戦争によって世界中の動物たちが、途方もない暴虐を受けたのだ。
人間だけが被害者ではないのだ。それを忘れないで欲しい。
**** WOLFTEMPLE ****