<2008年3月18日>

動物と暮らす人は「闘い」の実像を知っておくべきだ。

愛護関係の人も知っておくべきだ。

それを知らないと、万一の事態に対処できないからだ。

※そして今日は、「学校」についても語る。


「闘い」は「争い」とは違う。

私にとって「闘」は、己を賭けた意味を持つのだ。

だから私は「闘争」とか「戦い」という文字は殆ど使わない。

思惑の乱れた争いではなく、争奪の匂いのする戦いでもなく、

今日は純粋に己を賭ける「闘い」の話をする。


この世に生まれて、誰もが「闘い」を避けては通れない。

「闘い」に対して嫌なイメージを持つ人も多いかも知れないが、

絶対に拒絶したいと思う人も多いかも知れないが、

だが実は、誰も「闘い」を避けては通れない。


大自然の闘いに、「良い悪いの賛否論」の出る幕は無い。

どちらが「善」でどちらが「悪」か、などという裁決は存在しない。

闘いは「対立」ではないのだ。

決して対立ではなく、あくまでも「相対」なのだ。

個と個が相対する事態の中の、ワンシーンなのだ。

「闘い」を好まぬ人は多いだろうが、

だがこの世間は、「闘い」どころではない「戦い」に溢れている。

その人も実はその「戦い」に参加しているのだ。

「商売」などはその典型だ。そして誰もが商売に関わっている。

「私は公務員だから」と言っても、その人の給料は税金から賄われ、

その税金は産業から賄われ、産業とは商売であり、つまり公務員も商売関係者なのだ。

商売とは無論、競争原理であり淘汰原理であり栄枯盛衰の世界だ。

結局は「こちらが儲かればあちらは潰れる」原理なのだ。

あちらが潰れれば他が登場し、また新たな競争淘汰が始まるのだ。

潰れて破産した一家は死活問題となる。

勝ち残った一家は客を増やして更に裕福となる。

この非情な戦いに、世間の誰もが参加しているのだ。

だから人間には、大自然の闘いを「野蛮」などと卑下する資格は無いのだ。


真の闘いに「悪意」は無い。

「暴力」は悪意そのものだ。

そこが決定的に違うところだ。

世間は「十把ひとからげ」に闘争と見るが、その分析は実は重大なのだ。

その分析の積み重ねが、つまりは暴力や虐待の予防になるのだ。

普段「闘争」への分析意識が無い人は、

それが「闘い」か「暴力」か「虐待」か判断できない。

「喧嘩両成敗」などという超理不尽で無責任な裁決しかできない。

それは「ことなかれ主義」そのものだ!!

全ての闘争には必ず理由がある。

その理由を知ろうともせずに「周りが迷惑だ!」のひと言で済ますのなら、

その集団はいつか必ず崩壊するだろう。何故なら闘争は必ず起こるからだ。

例えば「学校」が血気盛んな生徒たちを相手にそんな「ことなかれ排他主義」で接したら、

いつか必ずその学校の秩序は崩壊して制御できなくなるだろう。

喧嘩の理由も知ろうとせずに、その真意も知ろうとせずに、

ただ「校則違反」のひと言で懲罰していたら、生徒の心はやがて荒廃するだろう。

世の教育者は、闘争の実際を知らなさ過ぎる。

集団に於いては闘争問題を避けては通れないのに、軽視し過ぎてきた。

闘争の分析・闘争心理の分析を無視すれば、その姿勢に対しての反発が起こるのは必然だ。

そしてその反発は「増長」を生み、秩序を無視することとなる。

荒れた生徒たちから見れば学校など「むかつくバカ!!」程度の存在になってしまう。

学校は「敵意」の集合意識に満ち、無法地帯となる。

或いは学校は「虐め」に対して「仲良くしなさい!」のひと言で済ませる。

だが一体どういう意味で「仲良くしなさい」と言っているのか??

「仲良くしなさい」という言葉の本心は「とりあえず仲良くしなさい!」という意味だ。

この「とりあえず」思想が、やがて破滅を招くのだ。

すべてに渡る「とりあえず思想」が、遂には学校を崩壊させる。

根本の解決が面倒くさいのか??

それとも根本の解決への対策が分からないのか??

何を語っていいのか分からないのか??

学校は、そんなに勉強不足なのか??

だから生徒は学校を尊敬しなくなる。学校を信じなくなる。

教育の場の信頼が崩壊すれば生徒は暴走する。

エネルギーの発揮の方向が分からずに、その場しのぎの快感に溺れるようになる。

一抹の虚無感を感じながらも「とりあえず面白いこと!!」に走るしかなくなる。

そういう者同士が集まれば、もはや歯止めは効かなくなる。誰の言うことも聞かない。

そしてその意識は周囲に伝播する。他のみんなが影響を受ける。

徐々にその意識が通念となり、普通感覚となっていく。

そうやって育っていった子がやがて親となり、我が子をその感覚で躾けていくのだ。

無論、学校だけの責任ではない。

学校と家庭とは常に不可分の間柄なのだ。

学校と家庭と世間は常に相関し、反映し合うのだ。

だから本当は「教師」の手に余る難題なのだ。

本当なら「全体」で対処すべき重大課題なのだ。

それなのに全体は動かずに、教師だけに責任を押し付けてきた。

教師は悲鳴を上げ、生き延びるだけで精一杯となる。

全く、人間社会は何も考えていないのだ。

「教育」を真剣に考えたことなど一度も無いのだ。

常に「根本」を洞察しようとする習慣が無いから、考える力も失ったのだ。

社会も世間も学校も家庭も、「教育」を見失い、迷路を彷徨している。

「受験勉強指導」は教育ではない。

「勉強」の中の、単なる断片に過ぎないのだ。

単なる断片に過ぎないのに、そればかりに着眼し、そればかりを偏重した。

それがおかしいことに気付くのが、余りにも遅すぎたのだ。

人間は知能を自慢するが、なんで自慢できるのか不思議でならない!!

教育者は「達人」でなければならない。

教育とは本来、それほどに真剣勝負なのだ。

それなのに、社会は余りにも安易に考えていた。

大学で教職課程を履修しただけで、なんで達人になれるのか??

そんなことは火を見るよりも明らかなのに、社会はそれが分からないのだ。

いや、それほどに教育を甘く見ていたのだ。

その付けが回ってくるのは当然だ。当たり前の話なのだ。

社会の責任ということは世間の責任だ。

教育には金が掛かるから、世間もそれを了解しなければならない。

世間が了解しなければ、社会は実行できないのだ。

世間が「教育体制が悪い」と叫んでも、世間が協力しなければ改革は不可能なのだ。

だから世間の了解こそが不可欠の条件なのだ。


社会は「情操教育」と簡単に言うが、どれほど真剣なのか??

例えば学校の飼育動物を一生懸命に世話する生徒を、学校は誉めることがあるだろうか??

「真面目に作業したから偉い!」では、根本からずれている。

生徒はそんな言葉では感動しない。

「その愛は素晴らしい!!先生はあなたを尊敬します!!」と言われたら、

その生徒はどれほどうれしいだろうか!! どれほど生きる励みになるだろうか!!

学校で「感動」をもらえたなら、生徒の人生は変わる。

どんな子も唯一無二の素晴らしい個性を持っている。

その本人も気付かぬ輝く個性を持っている。

何故、それを見抜いてあげないのだ!! 何故、それを誉めてあげないのだ!!

どれほどうれしいか!! どれほど支えになるか!!

「やさしいね!元気があるね!お掃除が上手だね!お皿の配り方が上手だね!絵が上手だね!

折り紙が上手だね!力があるね!声が大きいね!約束を守ってくれたね!ありがとう!」

その子をよく観ていれば、必ず何かが隠されていることが分かるはずだ。

それを観てあげることが、どれほどうれしいことか!!

そしてその教師を、学校が誉めてあげるべきだ。

「先生、頑張っているね!! ありがとう!!」

その教師はどれほどうれしいだろうか!! どれほど励みになるだろうか!!

喜びの循環で、学校は愛の聖堂となる。

根底に息づく愛を了解していれば、少々厳しい叱咤でも、生徒は反発したりはしない。

「本物の愛による厳しさ」ならば、生徒はそれを敏感に感知するのだ。

「今日の給食は美味しかったね!楽しかったね!また明日も一緒に食べようね!」

家庭で親から愛情をもらえない子が、どんなにうれしいだろうか!!

喜びを分かち合うひと時が、どんなにうれしいだろうか!!

その生徒は忘れない。

学校という聖堂を。聖堂での愛の時間を。愛の偉大さを。

学校を出れば社会に行く。

しかしその子はその時も忘れない。

子供の頃の感動は、その子の一生に、甚大な影響を与え続けていくのだ。

「教育」とは闘いだ。常に真実を見抜いていく闘いなのだ。

胸の奥に流れるその真剣の気迫は、子供に伝わるのだ。


※「02」は後ほど書きます。

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