<2008年3月17日>
夜の森を歩く。
頭上に小鳥の声がついて来る。
いつも同じ種類の声だ。
普通は夜に鳥は飛ばないと記憶するが、何の鳥だろう??
もちろん、ヨタカでもなければフクロウでもない。
その声は小鳥の声なのだ。
立ち止まって頭上を見上げるが、姿は見えない。
夜でも月明かりで見えるはずなのに、いつも見えない。
或いは頭上近くに「羽ばたきの音」が聞こえる時もある。
この場合は、かなり大きな鳥の羽ばたきだ。
だが、いつも姿が見えない。
とても不思議だ。
夜の森は独特の世界だ。
昼間とは全く違う。
蒼い闇の中で神秘の気配が一段と深まるのだ。
昔はオオカミやエスキモー犬と深夜の山を散歩した。
彼らとの夜の山の散歩は、特別な緊張をともなう。
彼らの野性に、暗闇の中で対処していかなければならないからだ。
彼らの超感覚は凄いので、彼らの様子を見るだけで、はるか遠くの気配まで分かった。
エスキモー犬「ライ」は豪胆の塊りで、何が近づいてもひと言も吠えない。
いかなる時でも自然体でいられる度胸を持っていたのだ。
だが、気配をキャッチした瞬間に、彼は自らの四肢を定位置に決める。
瞬間に最大の速さでアクションに移れるベストバランスで構えるのだ。
しかし頭は高く掲げている。自信に満ちているからだ。
ライは野性の猟本能が烈しいので、彼が構えた時は厳重注意だった。
彼の全身に物凄いパワーのオーラが立つ。
私は手綱を握り直し、彼の爆発力に備える。
彼は極大型なのに電光の速さを持つのだ。
もちろんライは私の指示を聴いてくれるが、
そのケタ違いのパワーに対して万全の態勢が必要なのだ。
オオカミの太郎は、ライとはまた異なる迫力を持つ。
父の私も圧倒されるほどの、異世界の凄味を放つ。
太郎はライよりも更に一回り以上も大きい。巨狼だったのだ。
もし彼が本気を出せば私は身体ごと持っていかれるが、
彼もまた私の指示を守ってくれたので無事に済んだのだ。
もちろん、太郎もライと同様に完全沈黙を押し通す。
彼らに共通するのは「沈黙の威圧感」なのだ。
彼らと歩いた夜の山は、いつもスリリングだった。
彼らが通ると辺りの空気が緊迫したのだ。
それが私に伝わるのだ。
ライと太郎が他界して久しいが、今も彼らの感覚を忘れない。
彼らの超感覚を、この全身に刻んできたのだ。
夜の森を歩くとき、今も彼らの気配を感じることがある。
夜の森で、瞑黙に入る。
犬たちの犬舎の前方に坐る。
彼らの世話を終えた後、みんなと共に野性禅に入るのだ。
まだ森は雪に覆われているが、気温は随分と上がったので大丈夫だ。
野性禅は形に囚われない。いつも自然体だ。
多分、坐禅とも違うし、止観行とも違うし、阿字観行とも違うし、ヨガとも違う。
何も考えずに坐る。目は閉じることもあるし閉じないこともある。
呼吸も意識はしない。深静に入れば、おのずと呼吸も定まるのだ。
心が深静境となれるなら、そのときすなわち姿勢や呼吸は定まっているということだ。
何も考えないし何も想わないが、深静の中に現われるものがある。
そのインスパイアは、心に深く刻まれる。
私の心には、そのインスパイアされた何かが生きている。
たとえば私の文章も、ほとんどが野性禅の中のインスパイアなのだ。
自分と犬たちの境もなくなる。
自分と森との境もなくなる。
ここにいながら大自然界を感じる。
ここにいながら大自然界のみんなを感じる。
ここにいながら、概念を超えた無限世界に突き抜けるのだ。
昼間の森の輝きの中での野性禅も素晴らしいが、
蒼い闇の森の中の野性禅も、神秘に満ちて素晴らしい!!
**** WOLFTEMPLE ****
夜の森を歩く。
頭上に小鳥の声がついて来る。
いつも同じ種類の声だ。
普通は夜に鳥は飛ばないと記憶するが、何の鳥だろう??
もちろん、ヨタカでもなければフクロウでもない。
その声は小鳥の声なのだ。
立ち止まって頭上を見上げるが、姿は見えない。
夜でも月明かりで見えるはずなのに、いつも見えない。
或いは頭上近くに「羽ばたきの音」が聞こえる時もある。
この場合は、かなり大きな鳥の羽ばたきだ。
だが、いつも姿が見えない。
とても不思議だ。
夜の森は独特の世界だ。
昼間とは全く違う。
蒼い闇の中で神秘の気配が一段と深まるのだ。
昔はオオカミやエスキモー犬と深夜の山を散歩した。
彼らとの夜の山の散歩は、特別な緊張をともなう。
彼らの野性に、暗闇の中で対処していかなければならないからだ。
彼らの超感覚は凄いので、彼らの様子を見るだけで、はるか遠くの気配まで分かった。
エスキモー犬「ライ」は豪胆の塊りで、何が近づいてもひと言も吠えない。
いかなる時でも自然体でいられる度胸を持っていたのだ。
だが、気配をキャッチした瞬間に、彼は自らの四肢を定位置に決める。
瞬間に最大の速さでアクションに移れるベストバランスで構えるのだ。
しかし頭は高く掲げている。自信に満ちているからだ。
ライは野性の猟本能が烈しいので、彼が構えた時は厳重注意だった。
彼の全身に物凄いパワーのオーラが立つ。
私は手綱を握り直し、彼の爆発力に備える。
彼は極大型なのに電光の速さを持つのだ。
もちろんライは私の指示を聴いてくれるが、
そのケタ違いのパワーに対して万全の態勢が必要なのだ。
オオカミの太郎は、ライとはまた異なる迫力を持つ。
父の私も圧倒されるほどの、異世界の凄味を放つ。
太郎はライよりも更に一回り以上も大きい。巨狼だったのだ。
もし彼が本気を出せば私は身体ごと持っていかれるが、
彼もまた私の指示を守ってくれたので無事に済んだのだ。
もちろん、太郎もライと同様に完全沈黙を押し通す。
彼らに共通するのは「沈黙の威圧感」なのだ。
彼らと歩いた夜の山は、いつもスリリングだった。
彼らが通ると辺りの空気が緊迫したのだ。
それが私に伝わるのだ。
ライと太郎が他界して久しいが、今も彼らの感覚を忘れない。
彼らの超感覚を、この全身に刻んできたのだ。
夜の森を歩くとき、今も彼らの気配を感じることがある。
夜の森で、瞑黙に入る。
犬たちの犬舎の前方に坐る。
彼らの世話を終えた後、みんなと共に野性禅に入るのだ。
まだ森は雪に覆われているが、気温は随分と上がったので大丈夫だ。
野性禅は形に囚われない。いつも自然体だ。
多分、坐禅とも違うし、止観行とも違うし、阿字観行とも違うし、ヨガとも違う。
何も考えずに坐る。目は閉じることもあるし閉じないこともある。
呼吸も意識はしない。深静に入れば、おのずと呼吸も定まるのだ。
心が深静境となれるなら、そのときすなわち姿勢や呼吸は定まっているということだ。
何も考えないし何も想わないが、深静の中に現われるものがある。
そのインスパイアは、心に深く刻まれる。
私の心には、そのインスパイアされた何かが生きている。
たとえば私の文章も、ほとんどが野性禅の中のインスパイアなのだ。
自分と犬たちの境もなくなる。
自分と森との境もなくなる。
ここにいながら大自然界を感じる。
ここにいながら大自然界のみんなを感じる。
ここにいながら、概念を超えた無限世界に突き抜けるのだ。
昼間の森の輝きの中での野性禅も素晴らしいが、
蒼い闇の森の中の野性禅も、神秘に満ちて素晴らしい!!
**** WOLFTEMPLE ****