<2008年3月17日>

世間では「卑怯」という観念が薄れているらしい。

「卑怯」が恥ずべき愚行だという意識が薄いらしい。

つまり世の中は「美学」を失ったのだ。

本当ならどこにでも、何をするにも「美学」が潜んでいる。

その時その時その美学を探し、その美学を実行しようと努める姿が美しかったのだ。

だが近年、その素晴らしい姿勢は無視され続けた。

世間は美学を軽視し、美学に無関心になった。

そうなれば世の中はそのようになる。

実際に世間はそうなったのだ。


「喧嘩」にしても、美学は必要とされなくなった。

だからどこまでも卑怯な、冷酷な喧嘩が起こる。

本来それは喧嘩ではない。一方的な暴力だ。一方的な「虐待」だ。

世間は喧嘩と虐待の区別もつかなくなってしまったのだ。

普段「美学」を考えていないから、だから「卑怯」の姿も見失ってしまうのだ。

いくらなんでもそれは卑怯だぞ!!という声が聴こえなくなってしまうのだ。

だから「いじめ」を卑怯だと感じなくなってしまうのだ。


日本には素晴らしい美学があった。

だが近年、それは一切を否定された。

世間はその中身を吟味すること無しに、全てを「十把ひとからげ」にして否定した。

その中から貴重な部分を見出そうともせずに、全てを否定することが正義だと誤解したのだ。

その狭い了見は、その批判体質は、その否定体質は、見事に世間を導いていった。

これは政治の話ではない。世間の意識を述べているのだ。

実は、世間の意識こそが結局は「最大の力」なのだ。

目には見えなくとも世間の集合意識が遂には政治に反映しているのだ。


この世に生きていれば「衝突」はつきものだ。

全ての者が異なる個性を持っているのだから、それは必然だ。

だが「どのように衝突するか」が問題だ。

手段を選ばずに卑怯に行くか、それとも美学をわきまえ手段を選んで行くか、それが問題だ。

勝とうが負けようが、そんなことは二の次だ。

互いに暗黙の了解で手段を守って衝突した時、そこに勝敗など無いのだ。

卑怯を捨てて美学に生きることこそが遂には「命の誉れ」となる。

「武士道」の真の名誉は「美学を貫く生き様」だった。

武士道と武術は違う。武術とは「勝つための方法」だ。

武士道とは「目指す道」なのだ。

はるかな道を目指して突き進むのだ。

例えどれほど困難でも、例え命が懸かろうとも、その姿勢を貫くのだ。

例え結果として命を落とそうとも、それは「輝きの死」だ。

そのとき死は、真実の生に昇華するのだ。

武士道を短絡的に「死の美学」だと解釈する人がいるが、それは誤解だ。

武士道の死は、「輝ける生の果ての輝ける死」なのだ。

かつて「アメリカンネイティブ」はオオカミをリスペクトしていた。

きっと野生のオオカミの真髄をその目に焼き付けてきたのだろう。

彼らはオオカミの精神を「ナイトウルフスピリット」と尊称していた。

「オオカミの騎士道魂」という意味だ。

「オオカミは凄い! 俺たちはオオカミに学んで生きてきたんだ!」と彼らは語った。

己の意志で生死の境界上を生きる者ならば、武士道を、騎士道を、理解できる。

だが死の意味を考えずに過ごしていたなら、理解できないだろう。

死の意味を考えないということは、生の意味を考えていないということだ。

生と死は常に一体なのだ。

それを実感できれば、武士道が、騎士道が、理解できるはずだ。

こういう話をすると、すぐに闘争や戦争と結びつける人が多いが、

実はそういう人ほどエキサイトすると見境が無くなる。

なぜなら、そこに潜む真意を読もうともせずに否定に走る人だからだ。

冷静に真意を判断せずに偏見に走る人だからだ。

「美学」を意識していれば、冷静な判断が可能になる。

美学を無視するからヒステリーになり、手段を選ばなくなるのだ。


本来、道徳とは生きる上での美学だ。

だが指導者が美学の本質を知らなければ、単なる「規律」に終わってしまう。

規律で人は導けないのだ。

道徳の真髄を知る指導者が、その者の言葉で真髄を語るとき、そのとき人は耳を傾けるのだ。

道徳が軽視されれば、美学が無視されれば、世の中は殺伐となる。

そんなことは初めから明白だったのに、誰も分からなかったのだ。

「いじめ」が減らないのは、世間の本心が「いじめ」を卑怯と思っていないからだ。

世間は気付いていないが、それが世間の本心なのだ。

実際、世間は「クレーム」に熱中する。「揚げ足取り」に熱中する。

堂々とした喧嘩はできないくせに、卑怯な攻撃の快感に酔い痴れている。

**** WOLFTEMPLE ****