<2008年3月7日>

「神は全てを許す!」と語る人が多い。

「神はいかなる行為も許す!」と語る人が多い。

「全てはそのままでOK!」と語る人が多い。

だがそれは「人間が最も喜ぶ言葉」だ。

その言葉に人間は煽てられる。

煽てられ、ますます人間特有の傾向性を強めていく。

人間は果てしなく「エゴ」に走るのだ。

上の言葉は、そのエゴに対する励ましの言葉だ。

そのエゴによって人間は自爆間近だというのに!!

自爆だけならまだしも、罪なき命たちを巻き添えにしているのに!!


その励ましの言葉を語る者は、一体どれほどの苦しみを体験した者なのだ??

極限の苦しみを、地獄の痛みを、耐えたことがあるというのか??

耐えたことがあって、それで語っているというのか??


私の家族が、世界中の私の家族の動物たちが、人間から拷問を受けている。

毎日毎日、人間界の誰も耐えられない痛みと苦しみを味わい続けている。

だが彼らは、恨まず、憎まず、ただ哀願の中で死んでいく。

死の瞬間まで純真を守り抜いた彼らに対して、人間はひとかけらの祈りも捧げない。

だが私は、人間たちに罪は問わない。 恨まず、憎まない。

何故なら、恨みも憎しみも、真の力など持たないからだ。

その代わりに、この世には、ケタ違いに厳しい「掟」がある。

非道の実行者は、ただでは済まない。

いつか必ず、思い知ることになる。

それは絶対の法則だ。誰も逃れることができない。

この世には、果てしなく厳しい掟があるのだ。

「因果応報」だ。 原因行為は巡り巡って必ず自らに還ってくるのだ。

それが「命の尊厳」に関わることであれば、より顕著に還ってくるのだ。

何故なら、それがこの世の格別な重大事であるからだ。

因果応報は、大悲界の厳かな裁きだ。

因果応報によって「罪を償う」のではない。

それによって「知らなければならないことを知っていく」のだ。

それは命として、どうしても知らなければならないのだ。

それを知っていかなければ命としての進化ができないのだ。

最も知らなければならないことは「慈悲」だ。

だからそれに関しては極めて厳重に因果応報されるのだ。

だが、因果応報があるからといって、非道を肯定する理屈は大悲界には無い。

非道は常に防止されなければならないのだ。

非道を平然と傍観する冷酷者は、慈悲を知るために延々と学ばねばならなくなる。

実感として知るまで延々と、その身をもって学ぶことになるのだ。


大悲界は、「全てを許す」などと語らない。

何も語らない。 ただ厳かに見据えている。

だが因果応報は、厳しき掟は、微塵も揺るぎ無く実行される。

「行為」がなされた瞬間に、それは決定されるのだ。


「許し」の意味は、非常に誤解されやすいのだ。

いくらでも安易に解釈ができるから危ういのだ。

真の許しとは、偉大な調和の中での大悲の愛の働きだ。

命が全身全霊で生きるとき、そのとき初めてそれが訪れるのだ。

命が真の愛に目覚めるとき、そのとき初めてそれが訪れるのだ。

そして許しは、時には「死」となって現われることもある。

慈悲が、死の形で迎えに来ることもあるのだ。

**** WOLFTEMPLE ****