<2008年3月5日>

「生贄」を要求する宗教がある。

宗教に限らず、生贄を求める儀式が世界中に存在する。

そこでの生贄とは、動物だ。

人間界の安泰のために、異種の命の犠牲を求めるのだ。

ここにも、人間の身勝手が存分に発揮されている。


そもそも、命を犠牲にする儀式など、本末転倒も甚だしい。

「目に見えぬ偉大な愛」を、人間得意の「自分本位解釈」で解釈すると、

本来の偉大な愛の姿を、根底から歪めて崇める結果になる。

偉大な愛が、生贄など求めるはずがない。

そんなことは子供でも分かる。 火を見るよりも明らかだ。

しかしそれが分からない状態になるのが妄信宗教だ。

人間の身勝手な自己愛で解釈した宗教を多くの人が共鳴するが、

異種族から見れば、大自然から見れば、とんでもなく迷惑だ。

迷惑どころではない。 それによって地獄の苦しみを味合わされるのだ。

偉大な愛が生贄を求めるのではない。

人間自身が生贄を求めているのだ。 自らの心を満足させるために。

人間の特権意識・優越意識・自分本位が、他者の犠牲を求めているのだ。


生贄のために飼われている動物の心境を察してみるがいい。

処刑の日の彼らの心境を察してみるがいい。

もし生贄を求める人間が生贄の立場なら、心を狂わすだろう。

誰ひとり、平静でなどいられない。 必死に許しを乞うだろう。

だが人間はそんなことには想いを巡らせない。

人間は蒼ざめた生贄の姿を見て満足する、それだけだ。

人間は生贄の犠牲が自分たちを幸福にすることを信じる。

他者の犠牲が自分の幸せになると信じて、喜びに満たされるのだ。


偉大な愛は、いかなる生贄も求めない。

偉大な愛は、いかなる貢物も求めない。

なにひとつ、求めない!! それが偉大な愛の本心だ!!

**** WOLFTEMPLE ****