<2008年2月26日>

山で犬たちと生きていると、不思議な体験が多い。

不思議な音とか光とか、他にもいろんな現象が起こる。

それらはもう、生活の一部なので、驚いたりはしない。


私は世間で言うところの霊障とか過去世とか宿業などには興味は無い。

「今、この瞬間」の華厳観で生きると、それらに関心は向かなくなる。

全ての過去が、「今この時」に凝縮されている。

全ての未来を、「今この時」が決定していく。

この今に、全てが映っているのだ。

「今」を観ずることが、全ての過去と全ての未来を観ずることになるのだ。

過去や未来を案ずるヒマなどない。囚われているヒマなどない。

物凄いスピードで全てが変化し、一瞬一瞬に新たな調和の姿が登場しているのだ。

決して「あわてる」という意味ではない。 決して「せかせかする」意味ではない。

深静沈着の中で悠々と今を刻んでいくのだ。「動中静・静中動」だ。

今に生きる時、本物の生命力が湧いてくる。 潜在する本当の力が湧いてくる。

「潜在力開発術」などに頼る必要などないのだ。

自分で自分の力を引き出すことが本当の「潜在力開発」なのだ。

今を生きると、いろんなものが見えてくる。

それまで見えなかったものが見えてくる。

人間の「認識界」が、いかに狭く小さな囲いであったかを痛感するはずだ。

感覚も研ぎ澄まされる。

野性たちはみんな「今、この時」を生きているから、超感覚の持ち主だ。

世間で言う霊感とか超常能力など、野性から見れば普通で当たり前の感覚なのだ。

生まれた瞬間から生死の境界線上に生きる野性たちは、超感覚が命だ。

それから較べれば人間の感覚など「鈍感」の一語に尽きるだろう。

修行者は練磨しているはずだが、それでも人間の鈍さは抜け切らないだろう。

「毎日が命懸けで、それでありながら平静を保って生きている」という野性界の生活は、

実はとんでもなく凄いことだ。 そこは尋常ならざるスピリットワールドなのだ。

人間ならば、命懸けの毎日が続けば、平静な穏やかさを失っていくはずだ。

その緊張と緊迫に平常心を失い、狂気を宿らせていくはずだ。

だが野性たちは、決して根本のスピリットを忘れないのだ。

そして己の全感覚を総動員した超感覚で生き抜くのだ。


私は神秘世界の愛好家では無い。 それを夢見ることも浸ることも無い。

しかし自分で体験した現象は真実なので、私にとって「神秘」は日常の領域だ。

私にとっては神秘現象よりもはるかに「人心」の方が不思議だ。

人間の残酷性は、理解の範疇を完全に逸脱した怪奇現象だ!!

不思議な体験は以前のブログにも何度か書いた。

今日は「光の魂」のことを書く。

(「熊の光」と「夕月の光」については、すでに綴りました。)


魂の光がある。光の魂だ。

だから「魂」が本当にあることを、実感する。

「火の玉」では無い。火の玉とは違うのだ。

電気の光でもなければ、陽の光でもない。

あくまでも「霊光」なのだ。

どんなに本を読んだところで、どんなに人の話を聞いたところで、

自分で出逢わなければ、魂の存在を信じることは不可能だろう。

だが実際に魂霊のシルエットや霊光に出逢えば、信じざるを得なくなる。

逆に、信じない方が異常で不自然だ。

自分が出逢ったのに、それでも信じられないのなら、その猜疑心は異常のレベルだ。

神秘現象よりもその猜疑心の方が、はるかに超常現象だ!!

世間は頑なに、自分の認識を超えた領域を信じない。

なぜ、執拗に否定しようとするのか??

なぜ、強迫観念のように「実証」を欲しがるのか??

なぜ、不思議を不思議として受け入れられないのか??

不思議が不思議のままだと、何か不都合でも生じるのか??

不思議の存在が、なにがなんでも許せないというのか??

それとも、不思議が怖いのか?? 認識できないものが怖いのか??

確かに、世間には幻覚で不思議現象を見てしまう人もいるだろう。

幻覚で見た現象を真実だと語る人もいるだろうし、その言葉に惑わされる人もいるだろう。

だが、そんな話は、どこの世界にも星の数ほど転がっているのだ。

神秘世界に限らず、どんな世界にもそんな話が転がっているのだ。

私は別に「自分の話を信じて欲しい」という意味で言っている訳ではない。

「なんでもかんでも同様の偏見で見たら、遂には何も見えなくなってしまう」ことを言いたいのだ。

世の中には欺瞞が溢れているが、だからといって全てを不信の目で見たら、何も見えなくなるのだ。

だからこそ自分の感覚を練磨して、自分で判断できる目を持たねばならないのだ。

身構えて警戒態勢のままだと、真の洞察力は出てこない。

堂々と、自然体で、見据えるのだ。 全感覚を起動して。

そうすれば、容易に見極めることが出来るのだ!!


我が家族が他界した時、私は夜の森で祈りを捧げる。

そこに儀式は何も無い。 線香を焚き、ただ一心に祈るだけだ。

光が、現われる。 その時によって、色や形はさまざまだ。

さまざまだが、光はいつも荘厳の極みだ。 たとえようもなく荘厳なのだ。

その光は、動く。 ゆっくりと穏やかに、動いている。

犬たちのいる中空に、かなり長い時間、いてくれる。

犬たちは、静かに、見つめている。 みんなが、見つめている。

他界した子の魂!! はっきりとそれを実感する。

とてつもない感動が湧きあがる。

この世の偉大さを、命の偉大さを、魂の偉大さを、心のすべてで感じる。

合掌せずにはいられない。 祈らずにはいられない。

心の底から、リスペクトの想いが湧き起こるのだ!!

やがて、光は消えゆく。

できることなら、また逢いたい。 できることなら、消えないで欲しい。

だが、それを望んでいたら、今を忘れることになる。

その時を、この胸に刻むのだ。 その時を胸に刻んで生きていくのだ。

来てくれたのだ。 魂が光となって来てくれたのだ。 それ以上の何を望むというのか!!

光の去った夜空を仰いで、犬たちがホウルを歌う。

荘厳なレクイエムの歌だ。 そして壮大なエールの歌だ。

犬たちは知っているのだ。 魂の行方を・・・

魂がどこに帰るのかを、知っているのだ・・・

魂が、去っていく。 我が子の魂が、去っていく。

涙が、とまらない。 哀惜の想いで、胸は張り裂けそうだ・・・

いつかまた逢うその日まで・・・

いつかまた逢うその日まで、この世界で頑張ることを、心に誓った。


以前、車で2時間半の、山の中の「動物管理センター」に、2ヶ月間通った。

深い事情があって、深夜から明け方まで、そこの庭で過ごした。

そこは犬たちを「処分」する場所だった。 もちろん、夜は無人だ。

明かりなど無いから、真っ暗闇だ。 辺りには何もないのだ。

私はそこで、多くの光を見た。 声が聴こえることもあった。

それは、当然の体験だった。 無数の命の無念に満ちた場所なのだ。

夜中、私は線香を焚き、祈った。

人間の無情によって命を絶たれた犬たちの冥福を、一心に祈った。

光が現われる。 美しく荘厳な光たちが、私の前に現われてくれたのだ。

目を閉じる。 彼らの想いが伝わってくる。

美しい心、果てしなき純真が、この心に伝わる。

恨みも憎しみも無い清らかな純情が、痛切に伝わる。

人間だったら、恨むだろうに。 人間だったら、憎むだろうに。

だが彼らは、どこまでも、純心だったのだ・・・

だからこそ、悲しい。 だからこそ、哀しい。

きっと、大悲界は、この理不尽極まる大罪を見逃しはしないだろう・・・


光のシルエットが見えることもある。

おそらく、亡き家族の姿だろう。

小さな姿のこともある。 大きな姿のこともある。 物凄く大きな姿のこともある。

光のシルエットだから、誰かは分からない。

でもなんとなく、誰だか分かる。

私は、立ち尽くす。 無言で、ただ見つめる。

それだけで充分だ。 心は、通い合っているのだ。

ありがとう!! ありがとう!! 我が子たちよ、本当にありがとう!!

いつも、その言葉しか出てこない。 感謝の気持ちで一杯なのだ。


生きている子たちの身体にも、光が現われることがある。

光に包まれる時もあるし、身体の部分が光る場合もある。

その子と同じシルエットの光が、その子のそばに現われることもある。

その瞬間には、それが何を意味するのかは分からないのだが、ただただ美しい!!

言葉にできないほどに、美しいのだ!!


この世は、偉大だ!!

たとえ現世がどんなに辛くとも、この世は、偉大だ!!

命は、偉大だ!! 魂は、偉大だ!!

一切の理屈を超えて、それが分かる。

光の魂が、それを教えてくれたのだ!!


※仏教では霊魂や神秘現象の話を避ける。

だが、大昔の高僧は、さまざまな不思議体験を重ねていたのだ。

この現代では、そのような実体験をする僧侶は殆どいないらしいが・・・

仏教は未熟な修行者が神秘に溺れることを危惧し、それで戒めを設けたのだと思う。

本当は否定などしていないのだが、そこに浸り、溺れることを、非常に心配したのだ。

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