<2008年2月25日>
世間は信仰を敬遠する。
だが実は、誰もが信仰している。
その人が自分で気付かないだけだ。
金を信仰する人がいる。暴力を信仰する人がいる。権力を信仰する人がいる。
金と暴力の権力を、自分にとっての唯一の正義とする人がいるのだ。
それがその人にとっての正義だから、そこには一切の躊躇がない。
快楽を信仰する人がいる。
快楽だけが人生の意義となっている人がいるのだ。
それだけが人生の意義だから、快楽のためには手段を選ばない。
科学を信仰する人がいる。
科学だけが人間を救うと狂信している人がいるのだ。
狂信だからその科学研究は手段を選ばない。 誰かが犠牲になろうとも平気だ。
自分を信仰する人がいる。
自分以外に関心を持てず、自分のことだけ考えているから、いつも悩みが尽きない。
自分への愛情が過剰だから、その偏愛が自分を迷路に追い込む。 脱出できなくなる。
過剰な自己愛が、遂には自分を苦しめているのだ。
本人はそれに気付かない。 周囲もそれに気付かない。
なぜ迷路に入り込んでしまうかが分からないのだ。
自分への愛と自分への偏愛とは全く異なる。 別の世界だ。 それに気付かないのだ。
この「自分信仰」に陥っている人は意外に多い。
世間は信仰を疑いの目で見る。 信仰など不要だと言う。
だが実は、誰でも信仰している。
人は信仰を否定しながら、自分本位の独創で妄信に走る。
人は信仰を拒否しながら、身勝手な独創で迷信に走る。
そして、自分で自分を苦しめる。
この世には、人間の思考をはるかに超えた摂理がある。
固定観念のオリに閉じ込められた人間には認識できない摂理が存在する。
それを発見した先人が、それを解明した先人がいる。
それを翻訳した先人が、それを記述した先人がいる。
だが、その表現方法はさまざまだ。
伝える意図の違いもある。 視座の違いもある。 解釈の違いもある。
だから、表現の形はさまざまになる。
それらのメッセージの判断は確かに難しい。
その表現の奥に隠された真意を読み解くことは難しい。
その表現の奥に潜む原点の姿を見ることは難しい。
その表現の奥に垣間見える本源を発見することは難しい。
解釈の解釈だから、いつのまにか本来の姿が消えてしまうことがあるのだ。
だが、真剣になれば見えてくる。 心から真剣になれば、見えてくるのだ。
それが見えれば、判断ができる。 それが見えれば、迷いなど生じない。
それが見えないから、人は本源の摂理を知ることをあきらめてしまうのだ。
野性界の命たちは迷わない。
彼らはいつも「命の使命」の声を聴いているからだ。
命懸けの真剣さで聴いているから、だから彼らはその声を聴くことができる。
その声を聴くために、彼らはいつも耳を澄ませているのだ。
雑念を振り払い、本気で真剣になれば、見えないものも見えてくる。
その心眼を持てば、自らの心が望んでいた信仰が明らかになる。
それまでの妄信とは、信仰の中身がガラリと変わる。
それまでの迷信では得られなかった真の充実が訪れる。
信仰とは、決して依存ではない。
信仰とは、他者から与えられるものではない。
信仰とは特別なものではなく、誰の人生にでも関わるものだ。
その人にとっての、生きる力だ。
その人にとっての糧であり、その人にとっての宝だ。
迷いながらの信仰は、信仰ではない。
迷いながらでは、生きる力にならない。
真剣に、己の心眼で、判断するのだ。
信仰を人に強要したり、その信仰に人を繋ぎ止めようとしても無意味だ。
その人のその時の心境がその信仰を拒んでいれば、信仰の意義は無いのだ。
その時の心の境地がその信仰を求めていなければ、真の祈りは湧き起こらないのだ。
だから、信仰とは、自分で探すものなのだ。 自分の心の直観で見つけるものなのだ。
真剣になれば、おのずと、その方向に向かっていく。
不思議なことに、心の求める方向に、必ず向かっていくのだ。
真の祈りは、力を秘めている。
心からの祈りは、偉大なエネルギーを秘めているのだ。
**** WOLFTEMPLE ****
世間は信仰を敬遠する。
だが実は、誰もが信仰している。
その人が自分で気付かないだけだ。
金を信仰する人がいる。暴力を信仰する人がいる。権力を信仰する人がいる。
金と暴力の権力を、自分にとっての唯一の正義とする人がいるのだ。
それがその人にとっての正義だから、そこには一切の躊躇がない。
快楽を信仰する人がいる。
快楽だけが人生の意義となっている人がいるのだ。
それだけが人生の意義だから、快楽のためには手段を選ばない。
科学を信仰する人がいる。
科学だけが人間を救うと狂信している人がいるのだ。
狂信だからその科学研究は手段を選ばない。 誰かが犠牲になろうとも平気だ。
自分を信仰する人がいる。
自分以外に関心を持てず、自分のことだけ考えているから、いつも悩みが尽きない。
自分への愛情が過剰だから、その偏愛が自分を迷路に追い込む。 脱出できなくなる。
過剰な自己愛が、遂には自分を苦しめているのだ。
本人はそれに気付かない。 周囲もそれに気付かない。
なぜ迷路に入り込んでしまうかが分からないのだ。
自分への愛と自分への偏愛とは全く異なる。 別の世界だ。 それに気付かないのだ。
この「自分信仰」に陥っている人は意外に多い。
世間は信仰を疑いの目で見る。 信仰など不要だと言う。
だが実は、誰でも信仰している。
人は信仰を否定しながら、自分本位の独創で妄信に走る。
人は信仰を拒否しながら、身勝手な独創で迷信に走る。
そして、自分で自分を苦しめる。
この世には、人間の思考をはるかに超えた摂理がある。
固定観念のオリに閉じ込められた人間には認識できない摂理が存在する。
それを発見した先人が、それを解明した先人がいる。
それを翻訳した先人が、それを記述した先人がいる。
だが、その表現方法はさまざまだ。
伝える意図の違いもある。 視座の違いもある。 解釈の違いもある。
だから、表現の形はさまざまになる。
それらのメッセージの判断は確かに難しい。
その表現の奥に隠された真意を読み解くことは難しい。
その表現の奥に潜む原点の姿を見ることは難しい。
その表現の奥に垣間見える本源を発見することは難しい。
解釈の解釈だから、いつのまにか本来の姿が消えてしまうことがあるのだ。
だが、真剣になれば見えてくる。 心から真剣になれば、見えてくるのだ。
それが見えれば、判断ができる。 それが見えれば、迷いなど生じない。
それが見えないから、人は本源の摂理を知ることをあきらめてしまうのだ。
野性界の命たちは迷わない。
彼らはいつも「命の使命」の声を聴いているからだ。
命懸けの真剣さで聴いているから、だから彼らはその声を聴くことができる。
その声を聴くために、彼らはいつも耳を澄ませているのだ。
雑念を振り払い、本気で真剣になれば、見えないものも見えてくる。
その心眼を持てば、自らの心が望んでいた信仰が明らかになる。
それまでの妄信とは、信仰の中身がガラリと変わる。
それまでの迷信では得られなかった真の充実が訪れる。
信仰とは、決して依存ではない。
信仰とは、他者から与えられるものではない。
信仰とは特別なものではなく、誰の人生にでも関わるものだ。
その人にとっての、生きる力だ。
その人にとっての糧であり、その人にとっての宝だ。
迷いながらの信仰は、信仰ではない。
迷いながらでは、生きる力にならない。
真剣に、己の心眼で、判断するのだ。
信仰を人に強要したり、その信仰に人を繋ぎ止めようとしても無意味だ。
その人のその時の心境がその信仰を拒んでいれば、信仰の意義は無いのだ。
その時の心の境地がその信仰を求めていなければ、真の祈りは湧き起こらないのだ。
だから、信仰とは、自分で探すものなのだ。 自分の心の直観で見つけるものなのだ。
真剣になれば、おのずと、その方向に向かっていく。
不思議なことに、心の求める方向に、必ず向かっていくのだ。
真の祈りは、力を秘めている。
心からの祈りは、偉大なエネルギーを秘めているのだ。
**** WOLFTEMPLE ****