<2008年2月23日>

仏教は本来、共生への導きだ。

偉大な調和を教え、絶対平等の尊厳を教え、真の共生に導く教典なのだ。

だから本当は、「ご利益」など謳わない。

そもそも身勝手な願望など、叶うはずがないのだ。

そもそも仏教に自分本位な願望を託すこと自体が的外れなのだ。

仏教は言う。 その前に「全身全霊」だと。 全身全霊で生きるのだと・・・・


※今日はごくごく簡単な言葉で、自分が実感した仏教のことを書きます。

心に浮かび上がる言葉をそのまま書いていくので、

あくまで「詩」として読んでくだされば有難いです。

走り書きに近い状態なので、また改めて推敲します。


仏教の教えには段階がある。

それぞれの段階に意味がある。

いろんな人がいるから、いろんな形の感受力があるから、いろんなステージがあるのだ。

自己満足的な「解脱願望」は、仏教から見れば幼い段階だ。

ひたすら「空:kuu」を追求する境地も、まだ途中段階だ。

覚りへの執着を超え、空へのこだわりを超え、いよいよ、大悲の真法界へ突き抜ける。

「大悲の空」、それは絶対平等の尊厳の世界だ。 偉大な調和の世界だ。

大悲の空の世界とは、無限の愛の世界なのだ!!

空の理解も、解脱実践も、すべてはこの「大悲」を覚るためのプロセスにすぎないのだ。

覚りの理屈を知ったからと言って、無心になれたからといって、大悲を知らねば意義は無い。

もし解脱したからといって、他者を想い、他者のために献身しなければ意義は無いのだ。

覚りは、そのまま実践に直結している。

実践に直結しない覚りなど、あり得ない。

一瞬一瞬に覚り、一瞬一瞬に実践に向かう。

覚りと実践は、常に不可分なのだ。

本当なら、覚った以上、いてもたってもいられなくなるはずだ。

そこに座っている心境にはなれなくなるはずだ。

覚れば、他者の境涯をその身で実感することになる。

あらゆる命たちの境涯が、ダイレクトに伝わってくることになる。

だから、いてもたってもいられなくなる。

「なんとしてでも、なんとかしたい!!」という心境になる。

自分のことなど忘れ去り、自分の苦境など忘れ去り、心は他者への想いで一杯になる。

それが覚りの心境だ。 それが大悲の心境だ。

覚りの寂滅境を知ったところで、問題はそこからだ。

解脱の力を、覚りの智慧を、どう使うかが、それが大問題だ。


「無我」とは、単なる無心状態とは違う。 無我は「虚無」とは違う。

無我(無自性)とは、無限の縁起世界の中で生きる自分を自覚した状態だ。

縁起の中に生まれ、縁起の中に生き、縁起の中で死に、縁起の中に刻まれる自分を覚った状態だ。

この自分が無限の関係性の中での自分であることを「実感」した状態だ。

自分は自分でありながら他者であり、自分でありながら全体だ。

他者は他者でありながらもこの自分だ。 全体は全体でありながらもこの自分だ。

自分と他者と全体とは、それぞれでありながらも、互いに別のそれぞれでもあるのだ。

一頭の狼に大自然が宿り、大自然に狼が映り、

それぞれの命がそれぞれに大自然を支え、大自然はそれぞれの命を支えている。

狼は狼でありながら鹿であり、鹿は鹿でありながら狼だ。

狼は狼でありながら大自然そのものであり、大自然は大自然でありながら狼そのものだ。

たとえば狼と鹿と大自然は、それぞれでありながら、互いにそのものなのだ。

そのように、すべての命が無限の関係の中にいる。 無限の連鎖の中にいる。

その無限縁起世界を、心のすべてで実感した状態が、無我だ。

これを実感すれば、すべての命の尊厳が絶対平等であることが容易に分かる。

すべての存在がそれぞれに唯一無二の価値を持つことが容易に分かる。

すべての存在が他に変え難い尊い個性を持つことが容易に分かる。

他者の痛みが分かるようになる。 他者の苦しみが分かるようになる。

心の底から湧き上がる本心で他者を、異種の命を、尊敬できるようになる。

そして自我を抑え、調和への献身を覚悟するようになる。

これが「共生心」だ。

共生心とは大悲の空の無我から生まれる。 無我が共生心を生むのだ。


およそこのような哲理を語っているのが「華厳仏教」だ。

ただし、これは私が実感した華厳であり、私の華厳解釈だ。

私は先行して「野性対話道」を実践していたので、その実体験と華厳がオーバーラップしている。

つまり私は実体験上の感覚で華厳を見た。 そして実体験上で華厳を実感したのだ。

華厳は、一切の違和感なしに私の胸に届く。

それは感動の毎日だった。 学べば学ぶほど、熱い感動が胸を貫いた。

山が華厳の友だった。家族の犬たちが華厳の友だった。森の動物たちが華厳の友だった。

私は彼らと共に華厳を体感してきた。

そして大自然が華厳そのものであることを知った。


「教相判釈」という「仏教の段階の解説」がある。

仏教を懸命に研鑽した高僧たちが、それぞれの解説を展開した。

一般に広く知られている解説は「天台大師の五時教判」だが、

それ以外にも有名な教判はいくつもある。「五時教判」は数ある中のひとつなのだ。

私の知る限りで最も分かり易い解説は、嘉祥大師の教判だ。

嘉祥大師は龍樹仏教の大成者だが、その後に天台大師の侍者となり天台仏教の奥義を覚ったという。

その膨大な修学を基に書いた解説は、中立性を貫いた極めて明解な教判だ。

それによると、華厳経は「根本法輪」となる。

だが華厳経は深すぎて理解が難しい。

最初に説かれたのだが、誰も理解できない。

そこで理解の範疇に納まる「三乗法輪」が説かれた。

だがそれでは真法界には辿り着かない。

そこで三乗に学ぶ者たちを総め、信を徹底させ、

そして最後の法門・根本法輪の華厳経に導いていく「摂末帰本法輪」が登場した。

それが法華経だ。 重大な使命を持った経典だ。

みんなを導くと同時に、この経自身にも根本法輪の要諦が秘められている。

みんなはその要諦に触れて理解力を高め、そしていよいよ最後の法門の扉を開ける。

そこには人間の理解を超えた真法界の核心が説かれているが、

帰一法輪によって機根の熟した者たちは理解可能となる。

簡単に説明したが、これが嘉祥大師の教相判釈だ。

途中までは天台大師の教判と同様だが、最後に再び華厳に帰るところが異なる。

幾多の教相判釈のほとんどが華厳を究極の教えとする。

嘉祥大師は法華経を「華厳法輪への導きの経典」と見たところが独特だ。

因みに法華経自身にも究極の教えが含まれていると見ているが、根本法輪は華厳経となっている。

教判は勝劣分析ではない。

過敏に勝劣にこだわる宗派もあるようだが、仏教とはそんな偏狭な宗教ではない。

何事にも段階があるのだ。 それぞれの段階に重大な使命があるのだ。

どれが勝れどれが劣るという次元の問題ではないのだ。

その段階を知るということなのだ。 仏教の全容を知るということなのだ。

私は華厳から感動を受けた。 心から、学びたい!!と思った。

誰から勧められた訳でもない。 自分の直観で華厳を判断したのだ。


人間にも仏性はある。

だがその宝物は、岩盤の下に眠っている。

ツルハシを振るって自らの力で岩盤を掘り続ければ、その宝が現われる。

しかし掘る苦労を放棄すれば、永遠に宝とは出会えない。

通常は、このように「修行」の果ての出会いとなる。

だが、迅速に宝と出会える機会がある。

我を忘れ、他者のために献身した時だ。

その時、仏心が現われるのだ。

いうなれば、いつでも仏になれるのだ。

いつでも仏になれるのに、人間がそれを拒否しているだけなのだ。

仏を選ばずに、眼前の欲望対象を選んでいるだけの話なのだ。

一切の固定観念を捨て、一切の偏見を捨て、我を忘れて他者を想う時、そこに無限が現われる。

あらゆる束縛を超越した、果てしなく深い無限の愛の世界が登場するのだ。 それが仏の世界だ。

だから仏の世界はどこにでも登場する。 すべては、その人の心次第なのだ!!

心が、仏を顕現する。 心が、仏の世界を登場させる。 すべては、「心」だ!!


人間の欲望は際限なくエスカレートする。

人間は支配欲が強い。 人間は優越意識が強い。 人間は強烈に自分本位だ。

人間はこれらの傾向性が顕著だ。 特殊な特徴を持っているのだ。

だから人間には指針が必要だ。 指針なしには暴走するのだ。

それは歴史が証明している。 今の地球の状態を見れば一目瞭然だ。

長い間、人間は自分の傾向性に気付かなかった。 傲慢だったからだ。

だが、そうは言ってられない時期に来た。

指針が、必要だ。 羅針盤が、灯台が、必要だ。

人の心を共生心へと導く教えが必要なのだ!!


華厳は大悲界だ。 大悲とは、無限の愛だ。

華厳は、無限の愛の世界なのだ。

この日本では華厳を知る人は少ない。 だが海外では人気が出てきたようだ。

特に宇宙物理学やエコロジーの世界で、華厳を学ぼうとする人が増えているらしい。

これまでは海外でも「知る人ぞ知る華厳」だったが、その真髄に気がつき始めたようだ。

ようやく、華厳が求められる時代に入ったと感じる。

世の中がようやく華厳哲理を受け入れられる次元に入ってきたと感じる。

私は人に華厳を押し付けるつもりは全くない。

だが、これからもずっと華厳の教えを紹介していく。

人智を超えたスケールの世界を、想像を超えたダイナミックな世界を、

この素晴らしい華厳世界を、紹介していく。

人々に知ってもらうことが、私はとてもうれしいのだ。


 **阿耨多羅三貌三菩提**

南無華厳大悲界 南無華厳菩薩道


今日は駆け足で書いたので、ほんの一部分しか語れませんでした。

華厳のハイライトはまだまだ一杯ありますが、また次の機会に綴ります。

**** WOLFTEMPLE ****