<2008年2月10日>
犬の知能を、「人間の幼児期レベル」だと語る人が多い。
人間界のメガネで見てしまうと、そういう見方になってしまう。
人間界の価値観で見てしまうと、犬の精神の本領が見えなくなる。
犬の知能は、人間の知能とは異なる。
犬の価値観は人間の価値観とは異なるから、
彼らの思考は人間の思考とは別の方向で展開される。
彼らの思考表現は、人間には理解が難かしい形で現われる。
彼らの思考力は、人間の想像とは別の領域で発揮されているのだ。
犬たちは常に判断し、決断し、表現している。
人間とは異なる価値観で一瞬一瞬に判断し、決断し、表現しているのだ。
その姿を人間の価値観の目で見ていたら、何も見えない。
ただ「幼稚だなあ!単純だなあ!」とか「えっ??なに??なんで??」となってしまう。
犬の価値観での忍耐を、犬の価値観での自律を、犬の価値観での忠誠を、人間は想像しない。
犬の価値観での美徳を、犬の価値観での仁義を、犬の価値観での調和を、人間は知ろうともしない。
動物間ならば、種が異なれども、彼らは分かり合っている。
だが人間はそれが苦手だ。人間はそれが出来ない。
自らの価値観を唯一絶対なものと妄信しているからだ。
無意識のうちに他種族の価値観を否定しているからだ。
犬たちは人間の身勝手な要望にも応えるが、実のところ彼らの心境は「???」だ。
そこに意味を見出せなくとも、「???」であっても、彼らは応える。
理不尽な要求だと知りながら、大らかな気持ちで応えているのだ。
それが理不尽なドッグ・トレイニングだとしても、
彼らはその人間と共に行動することに意味と喜びを見つけようとしているのだ。
その人間を立て、自分を譲り、そこに共感を味わおうとしているのだ。
人間には真似の出来ないような器量で応える彼らを「幼児レベル」としか見ないなら、哀しい。
強烈な自立心を持つ犬を、人間は「馬鹿犬」と呼ぶことが多い。
野性の強い犬、ボスの素質を持つ犬に、このケースが多い。
自我が強い訳ではない。「本能の判断の優先」を貫く気概に満ちているのだ。
野性では、ボスの立場に於いては、不動の自立心が不可欠の条件だ。
それなしには生きてはいけない。それなしには使命を全う出来ない。
だから彼らはそれを大切に守り抜く。
だが人間は、彼らのその真摯な気持ちを、これっぽっちも分かろうとしない。
そして「馬鹿犬」「強情な犬」「わがままな犬」と呼び、放棄する。
「雄狼が3歳になった時、全ての調教師は望みを失う。」という格言がある。
狼は3歳で成獣になるが、それを境にいよいよ本物の野性、本物の迫力が登場する。
雄の場合にそれが顕著だが、その時、いかなる猛獣調教師も身勝手な調教が不可能になる。
それを強行しようとすれば、遂には狼を射殺することになるだろう。そういう話だ。
この格言は真実だ。
「雄の成狼も完全服従するぞ!」と勘違いしている人もいるかも知れないが、
その人は狼が「立ててくれている」ことに気付かず、そして「限界線」があることを知らないだけだ。
人間の思うがままにならないスピリットも存在するのだ。
死を賭けて意志を貫くスピリットが存在するのだ。
狼の太郎もそうだった。北極エスキモー犬のライもそうだった。
私は身をもってそれを思い知らされた。身も凍る緊迫感も味わった。
家族の絆とは別の領域に、彼らの別の真髄が隠されていることを思い知ったのだ。
思うがままにならないからといって、訓練が入らないからといって、
ただそれだけで犬の能力を判断する人が多いが、それは甚だしい誤解だ。
彼らの価値観、彼らの真意、彼らの本領を知れば、それが誤解であることが分かるはずだ。
「日本犬に訓練なし」という格言もあるが、その意味は深い。
本来日本犬は、受動的な「命令待機本能」が薄いと言える。
自らの判断で主人に忠誠を尽くしていく傾向が強いのだ。
だから日本犬を「理解力に劣る」と誤解するトレイナーがいる。
「犬はただ指令に従うもの」と認識する人は、日本犬の真髄を理解し難いのだ。
逆に、指令を待ち、指令を遂行していくことに喜びと充実を感じる犬種もいる。
彼らは決して人間に媚びている訳ではない。おべっかを使っている訳ではない。
ただ純粋に「そうしたい!!」だけなのだ。それが彼らの傾向性なのだ。
自立傾向と待機傾向に、優劣は無い。 優劣を較べる問題ではないのだ。
ともに「個性」であり、ともに「能力」なのだ。
人間は好き勝手に犬の知能を論ずるが、
その前に、そもそも知能とは何なのか??を知る必要がある。
犬の思慮深さは、人々の想像をはるかに超えている!!
彼らの「目に見えない配慮」は、人々の想像をはるかに超えている!!
**** WOLFTEMPLE ****
犬の知能を、「人間の幼児期レベル」だと語る人が多い。
人間界のメガネで見てしまうと、そういう見方になってしまう。
人間界の価値観で見てしまうと、犬の精神の本領が見えなくなる。
犬の知能は、人間の知能とは異なる。
犬の価値観は人間の価値観とは異なるから、
彼らの思考は人間の思考とは別の方向で展開される。
彼らの思考表現は、人間には理解が難かしい形で現われる。
彼らの思考力は、人間の想像とは別の領域で発揮されているのだ。
犬たちは常に判断し、決断し、表現している。
人間とは異なる価値観で一瞬一瞬に判断し、決断し、表現しているのだ。
その姿を人間の価値観の目で見ていたら、何も見えない。
ただ「幼稚だなあ!単純だなあ!」とか「えっ??なに??なんで??」となってしまう。
犬の価値観での忍耐を、犬の価値観での自律を、犬の価値観での忠誠を、人間は想像しない。
犬の価値観での美徳を、犬の価値観での仁義を、犬の価値観での調和を、人間は知ろうともしない。
動物間ならば、種が異なれども、彼らは分かり合っている。
だが人間はそれが苦手だ。人間はそれが出来ない。
自らの価値観を唯一絶対なものと妄信しているからだ。
無意識のうちに他種族の価値観を否定しているからだ。
犬たちは人間の身勝手な要望にも応えるが、実のところ彼らの心境は「???」だ。
そこに意味を見出せなくとも、「???」であっても、彼らは応える。
理不尽な要求だと知りながら、大らかな気持ちで応えているのだ。
それが理不尽なドッグ・トレイニングだとしても、
彼らはその人間と共に行動することに意味と喜びを見つけようとしているのだ。
その人間を立て、自分を譲り、そこに共感を味わおうとしているのだ。
人間には真似の出来ないような器量で応える彼らを「幼児レベル」としか見ないなら、哀しい。
強烈な自立心を持つ犬を、人間は「馬鹿犬」と呼ぶことが多い。
野性の強い犬、ボスの素質を持つ犬に、このケースが多い。
自我が強い訳ではない。「本能の判断の優先」を貫く気概に満ちているのだ。
野性では、ボスの立場に於いては、不動の自立心が不可欠の条件だ。
それなしには生きてはいけない。それなしには使命を全う出来ない。
だから彼らはそれを大切に守り抜く。
だが人間は、彼らのその真摯な気持ちを、これっぽっちも分かろうとしない。
そして「馬鹿犬」「強情な犬」「わがままな犬」と呼び、放棄する。
「雄狼が3歳になった時、全ての調教師は望みを失う。」という格言がある。
狼は3歳で成獣になるが、それを境にいよいよ本物の野性、本物の迫力が登場する。
雄の場合にそれが顕著だが、その時、いかなる猛獣調教師も身勝手な調教が不可能になる。
それを強行しようとすれば、遂には狼を射殺することになるだろう。そういう話だ。
この格言は真実だ。
「雄の成狼も完全服従するぞ!」と勘違いしている人もいるかも知れないが、
その人は狼が「立ててくれている」ことに気付かず、そして「限界線」があることを知らないだけだ。
人間の思うがままにならないスピリットも存在するのだ。
死を賭けて意志を貫くスピリットが存在するのだ。
狼の太郎もそうだった。北極エスキモー犬のライもそうだった。
私は身をもってそれを思い知らされた。身も凍る緊迫感も味わった。
家族の絆とは別の領域に、彼らの別の真髄が隠されていることを思い知ったのだ。
思うがままにならないからといって、訓練が入らないからといって、
ただそれだけで犬の能力を判断する人が多いが、それは甚だしい誤解だ。
彼らの価値観、彼らの真意、彼らの本領を知れば、それが誤解であることが分かるはずだ。
「日本犬に訓練なし」という格言もあるが、その意味は深い。
本来日本犬は、受動的な「命令待機本能」が薄いと言える。
自らの判断で主人に忠誠を尽くしていく傾向が強いのだ。
だから日本犬を「理解力に劣る」と誤解するトレイナーがいる。
「犬はただ指令に従うもの」と認識する人は、日本犬の真髄を理解し難いのだ。
逆に、指令を待ち、指令を遂行していくことに喜びと充実を感じる犬種もいる。
彼らは決して人間に媚びている訳ではない。おべっかを使っている訳ではない。
ただ純粋に「そうしたい!!」だけなのだ。それが彼らの傾向性なのだ。
自立傾向と待機傾向に、優劣は無い。 優劣を較べる問題ではないのだ。
ともに「個性」であり、ともに「能力」なのだ。
人間は好き勝手に犬の知能を論ずるが、
その前に、そもそも知能とは何なのか??を知る必要がある。
犬の思慮深さは、人々の想像をはるかに超えている!!
彼らの「目に見えない配慮」は、人々の想像をはるかに超えている!!
**** WOLFTEMPLE ****