<2008年2月8日>

人間は「実験」が大好きだ。

「人間界の尺度」を基準にした偏向実験を強行する。

人間は何でもかんでも実験して実証したがる。

人間はデータだけを頼り、そこにデータが無いと安心できない。

そこに形や数字に表れた現物が無いと、信じようとしないのだ。

自分の尺度で認識できる範囲だけが、目に見える領域だけが信じる対象なのだ。

人間は「実験信仰・データ信仰」の信者だ。偏執的信者だ。

だから「感覚」を蔑視し、疑い続けてきた。

感覚を研ぎ澄ます努力を放棄した。

そして「直感・直観」の力を失った。

データは重要だが、実証は重要だが、それを妄信したら深奥は見えなくなる。

データとともに、実証とともに、深い心観力が不可欠なのに、人間はそれに気付かない。


実験信仰の狂信者にとっては、実験が至高の正義だ。

彼らの「正義」の前では、命たちの感情や尊厳は何の意味も持たない。

だから平気で残酷無比な実験ができる。

犬が何日間、飢えに耐えられるか??それを平然と眺めている。

犬が何日間、水の中に浸されても生きていられるか??

来る日も来る日も一日中、縛った犬を水中に浸したままで、それを平然と眺めている。

子犬の足を毎日毎日ハンマーで叩き続けて、原形を留めぬほどに破壊して、

犬にはどれくらいの痛覚があるのか??それを平然と眺めている。

子犬が痛みに泣き叫ぶ様子を眺めることが実験なのだ。

背骨を折られる犬がいる。頭骨を切開されたままの犬がいる。

「麻酔」など無い。 最初から、苦痛への配慮などひとかけらも存在しないのだ。

普通の人間ならば犬の激痛の姿を見ることに耐えられないが、実験者はとことん平気だ。

実験狂信・データ狂信は、かくも怖ろしいのである。

この世に、「動物実験」という拷問が実在する。

未だに、賛否の議論が続いている。

賛否の議論が続くこと自体、それが不思議でならない。

罪なき命が地獄の拷問の果てに死んでいくのだ。

人間が「手段を選ばぬ方法」で異常な自己優先を強行してきたから、

それで今の地球環境が惨状になったことを誰もが知っているのに、

それでも未だに「手段を選ばぬ方法」を続けているのだ。

なぜ手段を選ばない残酷さを肯定できるのか??

相手が「動物」だからだ。

人間はどうしても、「優越意識」を捨てることが出来ないのだ。

その意識が心の奥底に完全に根付いてしまっているのだ。

その意識があると「支配・利用」が当たり前の感覚になる。

手段を選ばぬ残酷無比な方法が平気になるのだ。

平気だから、いくらでも実験する。

実験材料は、ただ同然でいくらでも手に入るからだ。

捨て犬・捨て猫も次から次と増え続ける。

拷問実験のために生まされた子供たちが、

眠ることさえ不可能なほどに詰め込まれたケージの中で「待機」している。

身動きすることも出来ない苦しみの果てに、いよいよ拷問が待っている。

世論も「動物だから、しかたがない」という風潮だから、実験狂信者はやりたい放題に実験する。

社会通念が肯定しているのだから、この地獄は無くならないのだ。

肯定派は、つまり「平気」な人々だ。

実験の実態を知ってさえ平気でいられる人に、何を言っても通用しないだろう。

これは理屈の次元の問題ではないのだ。

理論でどれほどに「動物実験の無意味さ」を訴えても肯定派は聞く耳を持たない。

すでに途方も無くさまざまなデータがそろっていると言うのに、

すでに膨大なデータがそろっていると言うのに、

その材料が「動物」だから、無意味な実験を断固として止めようとはしないのだ。

気軽に、どこまでも気軽に、彼らは命たちを切り刻んでいく。

指一本をケガしただけで病院に駆け込んで「痛み止め」を打ってもらう人間が、

動物に対しては一片の情け容赦も無く拷問する。

あらゆる動物に、人間と全く同様の「痛覚」が存在するというのに!!

◆動物は生命存続のために、痛覚という「センサー」を備えている。

そのダメージに対して処置が必要なことを知らせるために、

それ以上の破壊を防ぐために、厳然と痛覚が存在しているのだ。

そんなことは考えなくとも分かることだ。思考以前の問題だ。

**** WOLFTEMPLE ****