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<2008年2月3日>

教え導くことは難かしい。

その時その時で、全て答えは異なる。

同じ答えなど一度も無い。

何故なら状況が違うからだ。事情が違うからだ。

だから、教導はいつでも真剣勝負だ。


動物を躾けるとき、最も重大なことは「飼主の心境」だ。これに尽きる。

飼主の「心の姿勢・心の状態」が全てを決定する。

今まで、それを語る人がいなかった。残念だ。

私は20年前から、ことあるごとにそれを語ってきたが、

人々はどうしても「マニュアル」の方に興味を持ってしまった。

マニュアルの方が分かりやすく手っ取り早いと思うのだろうか??

確かに「大まかな指針」はある。しかしそこまでにすぎない。

そこまでにすぎないのに、それが全能だと思い込んでいる人が多い。

だからすぐに限界が訪れる。次々とやり方を変える。混乱が起こる。


以前、外国から「絶対に叱らずに誉めて誉めて誉めまくる」という方法が紹介された。

日本人はそれを極端に解釈した。そして失敗する飼主が大勢いたらしい。

なぜ「極端」に解釈してしまうのかが不思議だった。

いや、日本人だけではない。その方法を発案した海外の人も「極端な解釈」の人だった。

その人は、その方法が通用しない犬を見捨てたのだ。

通用した犬だけを「犬」と認めたのだ。

その人にとって、通用しない犬は「犬」ではなかったのだ。

聞いた話だが、ある日本人はその方法を試みて結果が出なかった時、

バットで犬を殴り続けたそうだ。犬はカタワになったそうだ。

マニュアルを妄信すると、こういう悲劇が起こる。


「絶対に犬にナメられてはならない、絶対のボスになれ」という迷信もある。

そもそも、「ナメる、ナメられない」という概念が登場することが不思議だ。

犬の心の実像を知らないから、こういう考え方が登場するのだ。

よく話題に登る「権勢症候群」に対して、専門家と称する人はこの方法を推奨する。

だがこれを推奨された飼主は、極端な形で実行しようとする。

絶対の支配者になろうとする。

虐待に近い扱いを平然と行なうようになる。

しかし権勢症候群の解決にはならない。やがて破綻が訪れる。犬に決定的な悲劇が起こる。

「ボス」の素質を持って生まれた犬は、ボスに対する見る目が厳しい。

彼らは、本能でボスの資質を鋭く判断しているのだ。

彼らにとって「ボス」とは、群れの調和を導き、群れを守り抜く覚悟を持つ者だ。

彼らはつまり、深く知っているのだ。 彼らはつまり、真剣なのだ。

彼らはボスの道の厳しさを知っている。

彼らはボスが支配者ではなく「導きの者」であることを知っている。

だから時には「抗議」する。決して「反抗」ではない。

反抗ではなく、抗議なのだ。(※野生の群れに於いても抗議はあるのだ。)

彼らは、自分がボスになりたい訳ではない。

そんな野望など持ってはいないのだ!!

飼主を愛する心に揺るぎは無いのだ!!

飼主は自らを省みなければならない。自らを内観しなければならない。

そして真のボスの姿を求め、目指す。 そうすると、その犬は変わってくる。

その犬は、真実に敬愛したかったのだ!!

我が家族は、ボスの素質を持つ犬が多かった。

エスキモー犬のライは、完全なボス犬だった。

狼の太郎も、紛れも無くボス狼の素質だった。

私は彼らの気持ちが痛いほど分かる。

彼らは、己の全てを賭けた敬愛を求めている。

「服従」ではない。「愛」なのだ!!

彼らがもし本気になれば、私は一瞬で殺される。

抵抗する間もなく、殺される。

誇張ではない。彼らはそれほどの実力者なのだ。

だが彼らは私を立ててくれた。

自分の方が圧倒的に強いことを知りながら、自らの意志で私を立ててくれたのだ!!

しかし、私はいつも試練を受けていた。

「導きの者の道」に立つ以上、いつも自戒を求められた。

それを忘れたとき、私はリーダーではいられなくなる。

家族の絆の中にいながらも、いつもその緊迫感を味わい続けていた。

だがその厳しい緊迫感は、決して特別な項目ではない。

野性に於いては、それを背負うことが、ごくごく当たり前の日常なのだ。

それを放棄することは、リーダーの座を自ら放棄することなのだ。

ボスとは、家長とは、リーダーとは、そういう立場の者なのだ。

多くの人々は犬を支配して当然だと思っている。

当然だと思っているから、ボスとしての努力を怠る。

だが、その姿勢が通用しないケースも存在することを知るべきだと思う。

犬たちはいつも真摯だ。その気持ちに応えるのがボスの仁義だ。

これまで、世間では飼主の自覚が軽視されてきた。

「真のボス」の意味を知ることこそが重大事なのに、人々は無関心だったのだ。


私は犬たちを愛している。心から愛している。

だが私は過保護ではない。

「過」保護は、保護ではないのだ。

過保護によって、その犬に潜在する能力を削ってしまうことが多いのだ。

その犬に潜在する個性を閉じ込めてしまうことが多いのだ。

過保護は、いつも危うい状況を生む。

本線から外れた道に進んでしまう危険を常に隠し持っている。

異常なほどに偏愛していた飼主が、ある日突然、その犬を放棄したりする。

異常なほどに神経質にフードを選んだり、頻繁に病院や美容院を訪れたその飼主が、

ある日突然、その犬を見捨てるのだ。 その極端さは、まさに異常だ。

なぜ極端なのか?? 真実の愛ではないからだ。

真実の愛ではないから、真の対応方法が判断できないのだ。

本物の愛ならば、本気の心になる。 本気になれば、何かが見えてくる。

本当に真剣ならば、誰に聞かずとも、自分で分かるはずなのだ。

その飼主が、誰よりも分かるはずなのだ!!

そこには、その飼主とその犬だけが知っている深い深い事情があるのだ!!

本能を知り、習性を知り、個性を知り、状況を知り、事情を知り、理由を知り、

その果てに、その全てのファクターの果てに、刻々と対応していくのだ。

ときに厳しく、ときに大らかに、ときに烈しく、ときに穏やかに、

ときに静かに、ときに高らかに、ときに規律のなかで、ときに開放のなかで、

ときに掟のなかで、ときに許しのなかで、

但し、いつでも、どんなときでも、真実の「親心」で見守っていくのだ。

愛と威厳と慕情と毅然のなかで、尊と義と礼のなかで見守っていくのだ。

かりにも、「命」を預かっているのだ。

かけがえのない命を預かっているのだ。

飼主は、感覚を磨き、感性を研ぎ澄ませ、本気で犬と対話する義務がある。

人間界の法律には無くとも、天の法律には厳然とそれが存在するのだ!!

**** WOLFTEMPLE ****