
教え導くことは難かしい。
その時その時で、全て答えは異なる。
同じ答えなど一度も無い。
何故なら状況が違うからだ。事情が違うからだ。
だから、教導はいつでも真剣勝負だ。
動物を躾けるとき、最も重大なことは「飼主の心境」だ。これに尽きる。
飼主の「心の姿勢・心の状態」が全てを決定する。
今まで、それを語る人がいなかった。残念だ。
私は20年前から、ことあるごとにそれを語ってきたが、
人々はどうしても「マニュアル」の方に興味を持ってしまった。
マニュアルの方が分かりやすく手っ取り早いと思うのだろうか??
確かに「大まかな指針」はある。しかしそこまでにすぎない。
そこまでにすぎないのに、それが全能だと思い込んでいる人が多い。
だからすぐに限界が訪れる。次々とやり方を変える。混乱が起こる。
以前、外国から「絶対に叱らずに誉めて誉めて誉めまくる」という方法が紹介された。
日本人はそれを極端に解釈した。そして失敗する飼主が大勢いたらしい。
なぜ「極端」に解釈してしまうのかが不思議だった。
いや、日本人だけではない。その方法を発案した海外の人も「極端な解釈」の人だった。
その人は、その方法が通用しない犬を見捨てたのだ。
通用した犬だけを「犬」と認めたのだ。
その人にとって、通用しない犬は「犬」ではなかったのだ。
聞いた話だが、ある日本人はその方法を試みて結果が出なかった時、
バットで犬を殴り続けたそうだ。犬はカタワになったそうだ。
マニュアルを妄信すると、こういう悲劇が起こる。
「絶対に犬にナメられてはならない、絶対のボスになれ」という迷信もある。
そもそも、「ナメる、ナメられない」という概念が登場することが不思議だ。
犬の心の実像を知らないから、こういう考え方が登場するのだ。
よく話題に登る「権勢症候群」に対して、専門家と称する人はこの方法を推奨する。
だがこれを推奨された飼主は、極端な形で実行しようとする。
絶対の支配者になろうとする。
虐待に近い扱いを平然と行なうようになる。
しかし権勢症候群の解決にはならない。やがて破綻が訪れる。犬に決定的な悲劇が起こる。
「ボス」の素質を持って生まれた犬は、ボスに対する見る目が厳しい。
彼らは、本能でボスの資質を鋭く判断しているのだ。
彼らにとって「ボス」とは、群れの調和を導き、群れを守り抜く覚悟を持つ者だ。
彼らはつまり、深く知っているのだ。 彼らはつまり、真剣なのだ。
彼らはボスの道の厳しさを知っている。
彼らはボスが支配者ではなく「導きの者」であることを知っている。
だから時には「抗議」する。決して「反抗」ではない。
反抗ではなく、抗議なのだ。(※野生の群れに於いても抗議はあるのだ。)
彼らは、自分がボスになりたい訳ではない。
そんな野望など持ってはいないのだ!!
飼主を愛する心に揺るぎは無いのだ!!
飼主は自らを省みなければならない。自らを内観しなければならない。
そして真のボスの姿を求め、目指す。 そうすると、その犬は変わってくる。
その犬は、真実に敬愛したかったのだ!!
我が家族は、ボスの素質を持つ犬が多かった。
エスキモー犬のライは、完全なボス犬だった。
狼の太郎も、紛れも無くボス狼の素質だった。
私は彼らの気持ちが痛いほど分かる。
彼らは、己の全てを賭けた敬愛を求めている。
「服従」ではない。「愛」なのだ!!
彼らがもし本気になれば、私は一瞬で殺される。
抵抗する間もなく、殺される。
誇張ではない。彼らはそれほどの実力者なのだ。
だが彼らは私を立ててくれた。
自分の方が圧倒的に強いことを知りながら、自らの意志で私を立ててくれたのだ!!
しかし、私はいつも試練を受けていた。
「導きの者の道」に立つ以上、いつも自戒を求められた。
それを忘れたとき、私はリーダーではいられなくなる。
家族の絆の中にいながらも、いつもその緊迫感を味わい続けていた。
だがその厳しい緊迫感は、決して特別な項目ではない。
野性に於いては、それを背負うことが、ごくごく当たり前の日常なのだ。
それを放棄することは、リーダーの座を自ら放棄することなのだ。
ボスとは、家長とは、リーダーとは、そういう立場の者なのだ。
多くの人々は犬を支配して当然だと思っている。
当然だと思っているから、ボスとしての努力を怠る。
だが、その姿勢が通用しないケースも存在することを知るべきだと思う。
犬たちはいつも真摯だ。その気持ちに応えるのがボスの仁義だ。
これまで、世間では飼主の自覚が軽視されてきた。
「真のボス」の意味を知ることこそが重大事なのに、人々は無関心だったのだ。
私は犬たちを愛している。心から愛している。
だが私は過保護ではない。
「過」保護は、保護ではないのだ。
過保護によって、その犬に潜在する能力を削ってしまうことが多いのだ。
その犬に潜在する個性を閉じ込めてしまうことが多いのだ。
過保護は、いつも危うい状況を生む。
本線から外れた道に進んでしまう危険を常に隠し持っている。
異常なほどに偏愛していた飼主が、ある日突然、その犬を放棄したりする。
異常なほどに神経質にフードを選んだり、頻繁に病院や美容院を訪れたその飼主が、
ある日突然、その犬を見捨てるのだ。 その極端さは、まさに異常だ。
なぜ極端なのか?? 真実の愛ではないからだ。
真実の愛ではないから、真の対応方法が判断できないのだ。
本物の愛ならば、本気の心になる。 本気になれば、何かが見えてくる。
本当に真剣ならば、誰に聞かずとも、自分で分かるはずなのだ。
その飼主が、誰よりも分かるはずなのだ!!
そこには、その飼主とその犬だけが知っている深い深い事情があるのだ!!
本能を知り、習性を知り、個性を知り、状況を知り、事情を知り、理由を知り、
その果てに、その全てのファクターの果てに、刻々と対応していくのだ。
ときに厳しく、ときに大らかに、ときに烈しく、ときに穏やかに、
ときに静かに、ときに高らかに、ときに規律のなかで、ときに開放のなかで、
ときに掟のなかで、ときに許しのなかで、
但し、いつでも、どんなときでも、真実の「親心」で見守っていくのだ。
愛と威厳と慕情と毅然のなかで、尊と義と礼のなかで見守っていくのだ。
かりにも、「命」を預かっているのだ。
かけがえのない命を預かっているのだ。
飼主は、感覚を磨き、感性を研ぎ澄ませ、本気で犬と対話する義務がある。
人間界の法律には無くとも、天の法律には厳然とそれが存在するのだ!!
**** WOLFTEMPLE ****