<2008年1月29日>
今日は少し時間があった。だから犬たちの世話の合間にブログを書いている。
本稿は今日の3本目だ。自分の運命がいつ尽きるかも知れないから、いつも崖っぷちだから、
書ける時には書いておく。書きたいことは際限の無いほどに一杯ある。
野性界からの「伝言」は、まだまだ一杯あるのだ。だから書かねばならない。どうしても。
以前のブログで「共生心」についてを書いた。
共生の根本は、共生学ではなく共生心であることを書いた。
だが、この共生心を伝えることが難かしい。実に難題なのだ。
宗教的な領域だと感じる人も多いだろう。
そして警戒・敬遠する人も多いだろう。
世間では最近とみに「心!心!」と言う。「心の時代」だと言う。
だが宗教も信仰も思想もスピリチュアルも、全て心の領域の話だ。
なのになぜ、たとえば「宗教」という言葉になった途端、「信仰」という言葉になった途端、
人々は警戒態勢に入ってしまうのだろう?? 私にはそれがとても不思議だ。
いろんな事件があるからだろうか?? だが、事件はあらゆるジャンルで起きている。
「うさん臭い」印象が強いのか?? だが、あらゆるジャンルに「うさん臭さ」は充満している。
思うに、おそらく人は「判断」の自信が無いから、それで不安になってしまうのではなかろうか??
明確に判断がつけば、おそらく不安になどならないと思うのだが・・・・
あるいは世間の考える「宗教」とは、「教団」のことを指しているのだろうか??
宗教とは即ち教団であると思い込んでいる人が多いのだろうか??
「宗教」という言葉はもはや固定観念にまみれている。
そして人はその固定観念に振り回されている。
宗教は教団ではない。宗教は「指針」そのものを言うのだ。
それが分かれば、もっともっと冷静に判断できるはずだ。
世の中にはいろんな指針がある。
誰しも、何らかの指針を参考にしているはずだ。
それを考えれば、それが宗教であろうと思想であろうと、参考にすればいい。
私は「華厳仏教」を学んだ。山の中で犬たちと共に学んだ。
学びながら実感し、そして体感してきた。
華厳が「野性対話道」とオーバーラップする教えであり、
そして途方もなく深くダイナミックな教えであるからだ。
人智をはるかに超えた教えであるからだ。
しかし参考までにほかの宗教もかなり学んだ。ほかを学んでこそ華厳がさらに分かるのだ。
以前、森を降りた場所に事務所があった。仕事場にしていた。
そこにいくつかの宗教団体の人が突然に訪れた。
ていねいな挨拶だったから、いつも部屋に入ってもらった。
お茶があればお茶も出した。菓子があれば菓子も出した。
そして話を聴いた。真剣に聴いた。
だが、その人たちは自分の信仰する宗教以外には全く関心を持っていなかった。
私は自分が華厳を学んでいることを伝えたが、全く興味を示さなかった。
だから私は何も話さなかったが、
「参考になりますから本でも読んでみるといいですよ」と言っても、困った顔をするだけだった。
「教団の上の人から他の宗教のことも聞いていますから・・・」と返答する人もいた。
なんでこんなに排他的なのだろう?? なんでこんなに向学心がないのだろう??
それとも、自分で教理を判断することに自信が無いのだろうか??
私はそれがいつも不思議だった。
これではまるで「営業活動」ではないか?? 話を聴いても何も面白くない!!
大昔の寺、大昔の高僧は、さまざまな経典を学び、
その中でさらに研鑽を深めていったというのに、現代の教団はとても閉鎖的なのだ。
指針の形はさまざまだ。指針の表現はさまざまだ。そして指針には段階がある。
それらを知っておいた方がいいのに、知ろうともしないのだ。
私を訪問した人たちは、もし私が訪問したなら、話を聴いてくれるのだろうか??
多分、聴いてはくれないだろう。玄関払いだろう。
つまり一方的だ。相手から来られるとガードを固めるのだ。
みんな、なんでこんなに身構えるのだろうか??
確かに事件が多いにしても、それにしても防衛意識まる出しだ。
自身の「判断力」を磨けば、迷い無く、怖れ無く、堂々と決断ができるはずだ。
堂々と相手の話を聴き、堂々と分析し、明らかな決断ができるはずだ。
金儲けの宗教など、ニセモノの宗教など、一発で見抜けるはずだ。
ようするに、それを見抜ける自信が無いから身構えてしまうのだろう!!
「共生心」は心のスタイルだ。
あらゆる固定観念を外した心境で、種の違いを超えた尊厳を認識する。
私の場合には、その道程に野性対話道があり華厳があるのだ。それだけの話だ。
指針の参考として、それを紹介しているだけなのだ!!
**** WOLFTEMPLE ****
今日は少し時間があった。だから犬たちの世話の合間にブログを書いている。
本稿は今日の3本目だ。自分の運命がいつ尽きるかも知れないから、いつも崖っぷちだから、
書ける時には書いておく。書きたいことは際限の無いほどに一杯ある。
野性界からの「伝言」は、まだまだ一杯あるのだ。だから書かねばならない。どうしても。
以前のブログで「共生心」についてを書いた。
共生の根本は、共生学ではなく共生心であることを書いた。
だが、この共生心を伝えることが難かしい。実に難題なのだ。
宗教的な領域だと感じる人も多いだろう。
そして警戒・敬遠する人も多いだろう。
世間では最近とみに「心!心!」と言う。「心の時代」だと言う。
だが宗教も信仰も思想もスピリチュアルも、全て心の領域の話だ。
なのになぜ、たとえば「宗教」という言葉になった途端、「信仰」という言葉になった途端、
人々は警戒態勢に入ってしまうのだろう?? 私にはそれがとても不思議だ。
いろんな事件があるからだろうか?? だが、事件はあらゆるジャンルで起きている。
「うさん臭い」印象が強いのか?? だが、あらゆるジャンルに「うさん臭さ」は充満している。
思うに、おそらく人は「判断」の自信が無いから、それで不安になってしまうのではなかろうか??
明確に判断がつけば、おそらく不安になどならないと思うのだが・・・・
あるいは世間の考える「宗教」とは、「教団」のことを指しているのだろうか??
宗教とは即ち教団であると思い込んでいる人が多いのだろうか??
「宗教」という言葉はもはや固定観念にまみれている。
そして人はその固定観念に振り回されている。
宗教は教団ではない。宗教は「指針」そのものを言うのだ。
それが分かれば、もっともっと冷静に判断できるはずだ。
世の中にはいろんな指針がある。
誰しも、何らかの指針を参考にしているはずだ。
それを考えれば、それが宗教であろうと思想であろうと、参考にすればいい。
私は「華厳仏教」を学んだ。山の中で犬たちと共に学んだ。
学びながら実感し、そして体感してきた。
華厳が「野性対話道」とオーバーラップする教えであり、
そして途方もなく深くダイナミックな教えであるからだ。
人智をはるかに超えた教えであるからだ。
しかし参考までにほかの宗教もかなり学んだ。ほかを学んでこそ華厳がさらに分かるのだ。
以前、森を降りた場所に事務所があった。仕事場にしていた。
そこにいくつかの宗教団体の人が突然に訪れた。
ていねいな挨拶だったから、いつも部屋に入ってもらった。
お茶があればお茶も出した。菓子があれば菓子も出した。
そして話を聴いた。真剣に聴いた。
だが、その人たちは自分の信仰する宗教以外には全く関心を持っていなかった。
私は自分が華厳を学んでいることを伝えたが、全く興味を示さなかった。
だから私は何も話さなかったが、
「参考になりますから本でも読んでみるといいですよ」と言っても、困った顔をするだけだった。
「教団の上の人から他の宗教のことも聞いていますから・・・」と返答する人もいた。
なんでこんなに排他的なのだろう?? なんでこんなに向学心がないのだろう??
それとも、自分で教理を判断することに自信が無いのだろうか??
私はそれがいつも不思議だった。
これではまるで「営業活動」ではないか?? 話を聴いても何も面白くない!!
大昔の寺、大昔の高僧は、さまざまな経典を学び、
その中でさらに研鑽を深めていったというのに、現代の教団はとても閉鎖的なのだ。
指針の形はさまざまだ。指針の表現はさまざまだ。そして指針には段階がある。
それらを知っておいた方がいいのに、知ろうともしないのだ。
私を訪問した人たちは、もし私が訪問したなら、話を聴いてくれるのだろうか??
多分、聴いてはくれないだろう。玄関払いだろう。
つまり一方的だ。相手から来られるとガードを固めるのだ。
みんな、なんでこんなに身構えるのだろうか??
確かに事件が多いにしても、それにしても防衛意識まる出しだ。
自身の「判断力」を磨けば、迷い無く、怖れ無く、堂々と決断ができるはずだ。
堂々と相手の話を聴き、堂々と分析し、明らかな決断ができるはずだ。
金儲けの宗教など、ニセモノの宗教など、一発で見抜けるはずだ。
ようするに、それを見抜ける自信が無いから身構えてしまうのだろう!!
「共生心」は心のスタイルだ。
あらゆる固定観念を外した心境で、種の違いを超えた尊厳を認識する。
私の場合には、その道程に野性対話道があり華厳があるのだ。それだけの話だ。
指針の参考として、それを紹介しているだけなのだ!!
**** WOLFTEMPLE ****