<2008年1月29日>

野性のリーダーは「強い」だけではない。

「力」だけではリーダーになれないのだ。

群れの調和を導き、命懸けで群れを守っていく者がリーダーなのだ。

彼らは「導きの者」の看板の重さを知っている。

覚悟なしにはその座を全う出来ないことを知っている。

だから彼らは覚悟を忘れない。命を賭ける覚悟を忘れない。

彼らは常に、24時間365日、重大至極の判断を求め続けられる。

瞬間瞬間次々と、判断をクリアしていかなければならない。

仲間の命が懸かっているのだ。群れの存続が懸かっているのだ。

常に葛藤がある。悲しい決断もある。断腸の思いの決断がある。

「プレッシャー」などと言う次元ではない。途方もない重圧だ。

だが彼らはそんなものに弱音を吐かない。

最後の最後まで、群れを想い、仲間を想う。

野性のリーダーが、見事に美しい威厳に溢れているのは、そういう理由だ。

彼らのスピリットが光り輝いているのだ。

群れの仲間は無意識の内に、リーダーの全てを見つめている。

リーダーの心を、覚悟を、葛藤を、見続けているのだ。

そして群れの仲間は無意識の内に、

その者が「リーダーの条件」に満ちているかを見極めている。

リーダーも仲間からのその視線を知っている。

暗黙の中で、一瞬一瞬に、厳粛な審判が実施されているのだ。

だが、その懸命なリーダーを、仲間たちは慕う。

ただ従うだけではない。ただ敬うだけではない。慕うのだ。

真のリーダーへの尊敬は、同時に愛慕の心となるのだ。

「動物行動学」は屈折した視座で野性を見ることが多いが、

例えば野生の狼の群れに於いて仲間がボスに「敬慕の挨拶」をするとき、

動物学は「服従」という言葉しか用いない。それしか言葉を知らない。

単なる服従ではないのに、もっともっと深い心の琴線がそこにはあるのに、気が付かないのだ。


動物を飼うとき、「飼主はリーダーになれ!」とか「ボスになれ!」とか簡単に言う人が多い。

だがリーダーになるには、リーダーでいるには、リーダーであり続けるには、

実は大変な自覚と覚悟が不可欠なのだ。

本当はそれ無しには「飼主」にはなれないのだ。

動物たちはいつでも、どんな時でも、飼主の全てを見つめている。

そして彼らは本能で「リーダーの条件」を知っている。

だが彼らは途方もなく大きな心で、リーダーの条件に欠けた飼主を赦してくれている。

どんなに理不尽な扱いを受けても、赦してくれている。

しかし人間は彼らの「赦しの心」を知らない。知ろうともしない。

頑なに「飼ってやっているんだ!!食わせてやっているんだ!!」と思い続けている。

その傲慢さが続く限り、人間は「リーダーの意味」を知らずに終わるだろう。

**** WOLFTEMPLE ****