<2008年1月29日>
「調和」とは、生易しいものではない。
人は簡単に「調和」と口にするが、のん気に「調和」と口にするが、
そこには莫大なエネルギーが働いているのだ。命懸けのエネルギーが働いているのだ。
調和は、一瞬一瞬に刻々と姿を変えていく。
野性たちはそれを知っている。
だから一瞬たりとも「配慮」の意識を忘れない。
リラックスして休んでいる時でも、遊んでいる時でも、配慮の意識を忘れない。
彼らにとってはそれが普通のスタイルだ。当たり前のスタイルだ。
それに較べて、人間は怠慢すぎると感じる。鈍感すぎると感じる。
リラックスして!のんびりと!マイペースで生きようよ!と言うが、
人間はその意味をすぐに拡大解釈して、全てを弛緩させてしまう。緩み切ってしまう。
生きる上で必要な緊迫感さえも放棄してしまう。
それでは調和は困難だ。あまりに調和を軽く見ている。
仲良く仲良く!平和平和!対話対話!と言うが、それは互いが「聞く耳」を持ってこそ成立する。
片方が聞く耳を持っていなければ、永遠に成立しないのだ。
「聞く耳を持たない」という状態は「ヒステリー」の状態だ。
心に余裕をなくし、冷静を失い、身勝手な理屈に呪縛された状態だ。
片方がこの状態ならば、対話になどならないのだ。
人間界ではこの状況が非常に多い。しかしそれに気付いていない。
過剰な自己愛、過剰な自己優先意識が冷静な判断を不可能にしていることに気付いていない。
調和を無視した自己優先スタイルなのだから、調和が不可能になるのは当然だ。
(※大自然に対して人間は、ずっとこのスタイルを押し通してきた。なんの疑いもなく。)
野性たちは生き抜くために必死だが、だからと言って決して「節度」を忘れない。
節度なしには調和が成立しないことを、本能で知っているのだ。
調和なしには自分たちも生存できないことを知っているのだ。
彼らは「間合い」に配慮する。無駄な干渉を互いに避ける。
その身体に必要なものを食べ、必要な分だけ食べる。
欲望に支配されず、欲求をエスカレートさせない。
そして彼らは過剰な権利を主張しない。
過酷な命懸けの生活の中でさえ、彼らはこの掟を守り続けてきたのだ。
人間は「節度」が苦手だ。節度の判断も苦手だ。
人間の本能には、その能力が失われてしまったのだろうか?
野性たちは普通に実践できるというのに!!
**** WOLFTEMPLE ****
「調和」とは、生易しいものではない。
人は簡単に「調和」と口にするが、のん気に「調和」と口にするが、
そこには莫大なエネルギーが働いているのだ。命懸けのエネルギーが働いているのだ。
調和は、一瞬一瞬に刻々と姿を変えていく。
野性たちはそれを知っている。
だから一瞬たりとも「配慮」の意識を忘れない。
リラックスして休んでいる時でも、遊んでいる時でも、配慮の意識を忘れない。
彼らにとってはそれが普通のスタイルだ。当たり前のスタイルだ。
それに較べて、人間は怠慢すぎると感じる。鈍感すぎると感じる。
リラックスして!のんびりと!マイペースで生きようよ!と言うが、
人間はその意味をすぐに拡大解釈して、全てを弛緩させてしまう。緩み切ってしまう。
生きる上で必要な緊迫感さえも放棄してしまう。
それでは調和は困難だ。あまりに調和を軽く見ている。
仲良く仲良く!平和平和!対話対話!と言うが、それは互いが「聞く耳」を持ってこそ成立する。
片方が聞く耳を持っていなければ、永遠に成立しないのだ。
「聞く耳を持たない」という状態は「ヒステリー」の状態だ。
心に余裕をなくし、冷静を失い、身勝手な理屈に呪縛された状態だ。
片方がこの状態ならば、対話になどならないのだ。
人間界ではこの状況が非常に多い。しかしそれに気付いていない。
過剰な自己愛、過剰な自己優先意識が冷静な判断を不可能にしていることに気付いていない。
調和を無視した自己優先スタイルなのだから、調和が不可能になるのは当然だ。
(※大自然に対して人間は、ずっとこのスタイルを押し通してきた。なんの疑いもなく。)
野性たちは生き抜くために必死だが、だからと言って決して「節度」を忘れない。
節度なしには調和が成立しないことを、本能で知っているのだ。
調和なしには自分たちも生存できないことを知っているのだ。
彼らは「間合い」に配慮する。無駄な干渉を互いに避ける。
その身体に必要なものを食べ、必要な分だけ食べる。
欲望に支配されず、欲求をエスカレートさせない。
そして彼らは過剰な権利を主張しない。
過酷な命懸けの生活の中でさえ、彼らはこの掟を守り続けてきたのだ。
人間は「節度」が苦手だ。節度の判断も苦手だ。
人間の本能には、その能力が失われてしまったのだろうか?
野性たちは普通に実践できるというのに!!
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